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コラム

第102回 デビッド・ロスのマジック人生と意外点(2021.06/05 up)

はじめに

1970年代に登場し、コインマジックの世界で大きな貢献と影響を与えたデビッド・ロスが2021年1月14日に亡くなりました。
68才でした。私にとっての彼は意外性の連続でした。そもそも、このフレンチドロップのコラム掲載の依頼を受けた時に、
最初に取り上げようと思ったテーマが彼のシャトルパスでした。この素晴らしいコイン技法の存在が衝撃的であったからです。
さらに、それが意外な変化をしていたことにも驚きました。結局は、最初のテーマとしては少しマニアックすぎると判断して、
一般的な「マジックに適したカード」に変え、2回目を彼のシャトルパスにした経緯があります。
そして、デビッド・ロスはニューヨークが中心の活動拠点で、東海岸のマジシャンの影響が大きいと思っていました。
しかし、1970年代は西海岸のマジック・キャッスルが主な活動拠点で、キャッスルのマジシャンから大きな影響を
受けていたことも意外でした。また、彼の2011年からの活動も意外でした。
ニューヨークのConjuring Arts Research Centerに勤務して、手書きの歴史資料のデータ化に貢献されていました。
この機会にデビッド・ロスのマジック人生と私が感じた意外な点について報告させていただきます。

1970年頃までのデビッド・ロス

デビッド・ロスは1952年3月13日のニューヨーク生まれで、子供の頃はピアノを学んでいました。
さらに、ミュージック&アートの高校ではミュージックの学生としてオーボエを重点的に練習され、有名なジュリアード音楽院で
個人レッスンも受けていたことには驚きました。彼のコインの練習方法や特有のリズム感に影響があったのかもしれません。
マジックとは10代初めのマジックセットで興味を持ち始めますが、技術を使ったマジックに魅力を感じはじめたようです。
16才で両親よりプレゼントされたボーボーの「モダン・コインマジック」の本が、その後の彼の人生を大きく変えます。
音楽の世界よりもコインマジックに集中するようになります。
その本を読み込んで、1971年の19才頃にはニューヨークのコインマジックの世界で注目されるようになります。
本のまま演じるのではなく、それを出発点にして彼のセンスで一歩先の状態に高めています。
ところで、彼の父親はアートギャラリーを経営し、母親は劇場の女優で、母方の祖父は劇場作家であったそうです。

2010年1月号のMAGIC誌には7ページにわたり彼の特集記事が掲載されていますが、彼の誕生日に関わる面白い記事が
ありました。誕生日の1952年は「モダン・コインマジック」が発行された年であり、3月13日は
伝説のコインマジシャンとも言える英国のジョン・ラムゼイの誕生日であることが報告されていました。
なお、ラムゼイは1月16日に亡くなっており、デビッド・ロスが1月14日でしたので、かなり近い日であったことも驚きです。
ラムゼイは最近ではシリンダー・コインの考案者として有名ですが、ラムゼイの考え方やハンドリングに興味があったようです。
なお、ハンギングコインの原案はラムゼイで、それを大幅に変えてエッジグリップを加えて、生まれ変わった作品にしていました。
彼が17才の1969にラムゼイの”The Ramsay Legend”が発行されていました。
その中の”Three Coins in The Hat”の長い手順の中でハンギングコインの現象がありました。

ニューヨークにはタネン・マジックショップやマニアが集まるカフェテリアがあり、交流して情報や刺激を受ける環境が
彼にも影響を与えていたようです。MAGIC誌によると、1970年前後にはリッキー・ジェイと既に交流されており、
1990年代のリッキー・ジェイのツアーに同行することになる関係性が、その頃より出来ていたことになります。

また、カードマジシャンでギャンブルマジックの研究者であるダーウィン・オーティスとも深い交流関係にありました。
この二人の代表的カードエキスパートと10代から交流して、その後も続いていたのが意外でした。
ニューヨークといえばスライディーニの名前が浮かびますが、彼とは師弟関係ではなく、
個人レッスンを受けたこともありませんが、親密な交流関係があり、大きな影響を受けていたことが報告されていました。

1970年代のデビッド・ロス

1972年にはラスベガスのマジックコーナーに勤務し、多くのマジシャンと交流して刺激を受けています。
そして、1973年の21才でマジック・キャッスルに出演し、1974年にはキャッスルで
Visiting Magician of the Year Awardを受賞されています。その授賞式に関しては面白い記事がありました。
彼はキャッスル出演時以外は常にラフなスタイルのジーンズで、受賞式用の正装をもちろん持っていませんでした。
そこで、チャーリー・ミラーは革靴をプレゼントし、体型が近いロン・ウィルソンはタキシードを、
バーノンはタキシード用のネクタイをプレゼントされたそうです。
キャッスルの重鎮が彼の素晴らしさを認めていたとも言えます。その後も彼は数々の賞を受賞されています。
ところで、1970年代中頃のデビッド・ロスはニューヨークへ戻っていますが、その頃に柳川夫妻と親しい関係になります。
そのことについては、2002年にマジックランドより発行されたニュースレター「プレジャー」の3号と4号で、
柳川幸重氏が報告されていますので、是非、読まれることをお勧めします。

1976年に初めてのレクチャーを行い、初めての海外が1977年の英国です。1977年はジョン・ラムゼイの
生誕100年の記念の年になります。1978年には6週間かけてヨーロッパのレクチャーツアーを行い、1979年に日本各地で
レクチャーをされています。

ところで、1977年と78年はロサンゼルスのマジックキャッスル近くのアパートメントに住んでいたことが分かりました。
しかも、シェアハウスとして同じ部屋に住んでいたのがマイク・スキナーであったことには驚きました。
このキャッスル時代に多くのマジシャンとセッションして大きな影響を受けていたことも報告されています。
特にスティーブ・フリーマンとジェフ・アルトマンとの3人トリオは三銃士と呼ばれて、いつも一緒に行動していたようです。
フリーマンは1981年のバーノン来日時に共に来日したバーノンが認めたマジシャンの一人です。
アルトマンはコメディアンですが、カードマジックを研究し発表されており、父親も祖父もマジシャンの家系です。
ところで、1980年にはバーノンはヨーロッパへレクチャー・ツアーに出かけますが、その時に声をかけられて同行したのが
デビッド・ロスでした。

1979年の大阪レクチャーにて

1979年の大阪レクチャーに参加しましたが、意外なことばかりでしたので記憶に強く焼きついています。
シャトルパスに関しては第2回のコラムで報告していますので重複する部分がありますが、衝撃度の強い技法でした。
庄野氏の影響で、私の中でコインマジックへの興味が高まっていたことから、デビッド・ロスのレクチャーノートを
1年前には手に入れていました。そこに解説されていたウィングド・シルバーやコインボックスでは
シャトルパスがうまくできなければ成立しないマジックでした。シャトルパスの方法が簡単に解説されていますが、
実際面でのイメージがつかみにくい技法でした。この技法の繰り返しでこのマジックが通用するのかの疑問も感じていました。
なお、イラストが全くないレクチャーノートでした。

大阪のレクチャーに参加しますと、これまでの海外ゲストのレクチャーとは違った異質なムードを感じました。
ピリピリ張り詰めた空気になっているようでした。そのような中で演じられたシャトルパスを使ったウィングド・シルバーは
本物の魔法を見ている気分になりました。ありえない状態で手から手へコインが飛行していました。シャトルパスは左手から右手へ
コインを渡して受け取ったとしか見えません。最初から最後までコインが輝いた状態のまま見えているのに不思議な現象が
起こります。このマジックだけでなく、いずれもがタイミングを重視する作品ばかりでしたので、ピリピリしたムードに
なっていたのかもしれません。さらに、意外であったのが、レクチャーが短時間で終わってしまった印象です。
数作品をテンポよく実演とレクチャーをされ、休憩後には英語版のレクチャーノートにあるチョップカップの手順があると
思っていたのに終わってしまったので驚きました。それでも、演じられたコインマジックの全てが衝撃的で、コインマジックの
考え方が変わるレクチャーでした。英語版のノートにない3枚のコインを4枚にカウントし、1枚ずつ枚数を減らしてカウントしても
1枚多くなる現象も忘れられないものになりました。短時間に凝縮された収穫の多いレクチャーと言ってもよいものでした。
1981年には、リチャード・カウフマンがコインマジックの本を発行され、その中でデビッド・ロスのシャトルパスが
イラスト付きで解説されます。しかし、それは79年に実演した方法とは別物と思いました。確かに理論的には
間違っていないのですが、単純化しすぎて違うもののように感じました。

1982年の箱根クロースアップ祭にて

1982年からマジックランド主催で箱根クロースアップ祭が開催されることになりました。
その最初のゲストとしてデビッド・ロスが来日されたので、本人のシャトルパスが確認できると楽しみにしていました。
ところが、その時には全くの別物になっていました。別物と思っていた1981年の本の解説と同じか、それ以上に簡略化された
状態になっていたからです。このシャトルパスを使った作品は、いずれも1979年のような感動がありませんでした。そして、
演じられた作品は79年とは全く違ったムードのマジックばかりでした。テーブルの上に置かれたミニチュア・テーブルによる
コイン・スルー・ザ・テーブルや、音叉によるコインマジック、プラスチック製の虹を使って色が変わる3枚のコイン、
ポータブル・ブラックホールなどです。それぞれが素晴らしいのですが、1979年のレクチャーでの衝撃度が強かったので、
別のマジシャンが演じているように思ってしまいました。コインによる新しい可能性を追求されていたのだと思います。
また、技法がマジックの主体にならないように、考え方が変わっていたのかもしれません。

この時の対談で、読むべき本の質問での回答も意外でした。第1の本として1911年の”Our Magic”をあげていたからです。
たぶんコインマジシャンであるので「モダン・コインマジック」を言われると多くの参加者が思っていたはずです。
もちろん私もです。実際に16才からその本を読み込んだことにより、その後のデビッド・ロスがあるわけです。
”Our Magic”は初めて聞く名前の本であったためか、ほとんどの参加者には、その本がどのようなものであるのかの疑問が
強くなっていたと思います。1911年発行のマスケリンとデビッド・デバント共著による理論書です。
ダイ・バーノンが読むべき本のトップにあげていたことから彼もその本を読み込まれて、その重要性を
感じられたのかもしれません。その本の最初には本物のアートと偽物のアートについて書かれており、模倣だけの演技者は
偽物のアートに過ぎないと厳しい指摘があります。その点はデビッド・ロスはオリジナルが中心であることでは
本の考えに忠実です。もちろん、2番目にあげていた本は「モダン・コインマジック」でした。

1980年代の活躍

1978年から10年間ほど、ニューヨークのシンボル的存在のF.A.O.シュワルツ老舗トイ・ショップの
マジック・デモンストレーターとして活動しています。レクチャーツアーのために数週間不在になることも認められての
雇用契約となっていたようです。1980年代にはニューヨーク・マジック・シンポジウムが7年間連続して開催されていますが、
その全てにゲスト出演されていたことは注目すべきことです。1986年には東京で開催されますが、その時にもゲスト出演
されています。この時にコインによる凧上げを演じられたのが印象的です。面白い発想ですが、1979年の彼からは
考えられない方向へ進んでいる感じがしました。

1990年以降の活躍

1990年代もレクチャーツアーに出かけるだけでなく、リッキー・ジェイのステージ・マネージャーとして共に
ツアーに出かけています。今回の調査で分かった彼の意外な点が、熟練したカードマジックも演じられることです。
一般客相手であったり、レクチャー後の交流の中ではカードマジックも演じられていたそうです。
90年代に一緒に企業イベントで演技されたジェイミー・イアン・スイスや、21世紀に入って海外で共にレクチャーツアーをされた
ルービンシュタインがコメントされていました。考えてみれば、長い付き合いがカードのスペシャリストの
リッキー・ジェイであったり、ダーウィン・オーティスであるだけでなく、西海岸では同室者がマイク・スキナーであったり、
交流していたのがスティーブ・フリーマンだとすれば当然です。何を得意とされ、何を演じられていたのか気になるところです。

21世紀に入って、「ニューヨーク・コインマジック・セミナー」をルービンシュタインとマイク・ギャロと共に開始され
話題となります。そして、2011年にニューヨークのConjuring Artのメンバーとなり、さまざまな種類の仕事を
されることになります。ホーカス・ポーカス・プロジェクトは、ニューヨークの若者を支援するプログラムで、
彼のマジックが若者を身体的にも精神的にも癒す役割を果たしました。2014年のニューヨークタイムスが
彼の特集を組んだほどです。もっと、具体的なことを知りたかったのですが、調査ができていないままとなりました。
このプログラムの延長としてのConjuring Art University(CAU)では、バーチャルでの指導も行なっていました。
そして、重要な任務が歴史的価値の高い手書き文書のデジタル化です。Adrian Plateの個人的なマジックノートや、
スチュワート・ジェイムズの全ての手紙、そして、フーディーニの個人的な日記などで、豊富なマジック知識が
要求されていたのだと思います。Adrian Plateは1910年発行の”Magician’s Tricks How They Are Done”の著者で、
19世紀末からの最も気になる人物の一人です。

なお、デビッド・ロスは何年か前から、ちょっとした症状が出現するようになりました。
生命に関わるものではなく、軽症であったとのことですが、今回、それとは関係なく急に亡くなられたそうです。
将来に向けて、若者への教育指導に熱心で、コインの技術や彼の作品だけでなく、
考え方や歴史にも、さらなる貢献をされるマジシャンであっただけに残念でなりません。


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