国内外から一人ずつ研究すべきマジシャンを選ぶとしますと、私の場合には石田天海とダイ・バーノンになります。お二人は20世紀でのマジック界への影響力が計り知れません。もちろん、私への影響も絶大です。ところで、天海の名前を世界的に有名にしたのはバーノンといってもよいと思います。もちろん、天海のステージやクロースアップのマジックの素晴らしさは知られていました。また、文献からも知られていましたが、それは一部のマジシャンやマニアの間だけのことです。現在でも天海が世界中で知られているきっかけとなるのが天海パームの存在です。この名前を大々的に広めたのがダイ・バーノンです。1961年発行の天海の「奇術五十年」の本の最後の方には、バーノンと天海夫妻とで一緒に撮影された写真があり、かなり昔からの知り合いだと思っていました。しかし、調べますと1954年が最初の可能性が高く、天海が帰国する4年前にすぎないことが分かり驚きました。天海は1924年から渡米されて34年間のアメリカ生活となります。もっと以前から交流されていなかったのかを可能な限り調査しましたが、見つけることができませんでした。また、この調査の中で天海と著名マジシャンとの交流も調べ直しました。そして、天海パームについても再度調べ直しました。以前にも報告したことがあり重複する部分もありますが、これらの調査結果を報告させていただきます。
1960年代初めにテレビで見た天海の印象が忘れられません。小さかった私ですが、他のマジシャンとの違いを感じ取っていました。テレビで見なくなって寂しく思っていますと、古書店で1961年発行の「天海奇術五十年」の本を見つけて購入し、無我夢中で読みました。海外へ目を向けること、そして、海外のマジシャンに負けないオリジナルを考案すること。また、ミスディレクションといった興味深い考え方を知りました。ショーマンシップやプレゼンテーションについても書かれており、プロになるのは容易ではないことを知らされました。この本を読んだことにより、プロになるのではなくても、海外のマニアに通用するオリジナルを考案する興味が高まりました。そのためには海外の情報と文献を読む必要性を感じて、1970年代初めからGenii誌と海外文献を購入するようになりました。
バーノンのマジックに関しては、天海の場合とは全く逆の状態です。周りの多くのマニアがバーノンを絶賛していても、私には全く興味が持てませんでした。多くのマニアがバーノンのマジックを演じていたからです。完成度の高いマジックであっても新鮮味を感じることができませんでした。ところが、その後、バーノンの本当のすごさを知るようになります。バーノンが小さい頃に、難解なアードネスの「エキスパート・アット・ザ・カードテーブル」を読んで実践もして、しかも本物のギャンブラーからも知識を得ていたことが分かりました。そして、10代から20代にかけて、マニアやプロマジシャンを煙に巻くマジックばかりを演じて楽しんでいました。そのようなことができたのも、シルエットカッターといった一程度の収入が得られる職業を持ち、若い頃はマジックだけで収入を得る考えを持っていなかったからのようです。そのような超マニアの時代を経てマジックのプロにもなり、戦後はマジックの発展と育成のために完成度の高いマジックを中心に発表されていることが分かり、私のバーノンに対する興味がふくれ上がりました。
天海は1924年に天勝一座の一員として初めてニューヨークを訪れています。この時にサーストン一座のマジックの凄さに圧倒され、また、アル・ベーカーやマルホランドのクロースアップにも圧倒されて天海夫妻だけがアメリカに残る決意をします。しかし、当時は彼らの演技を見ただけで、それ以上の交流はなかったようです。その後の数年間は西海岸の各地の日本人農地を映写機を持って周り、マジックだけでなく無声映画の弁士や楽器も演奏して収入を得る活動に集中しています。その資金によりロサンゼルス郊外に住み、17ヶ月間にもおよぶ研究生活中にその後の代表作となる「シガレット・ウォッチ」を完成させます。この頃にカーディニの演技を見て大きな影響を受けています。もちろん、カーディニとの交流はありません。関係者から「シガレット・ウォッチ」を東部で披露すべきとの勧めで、1929年の夏にニューヨークに到着し活躍します。
バーノンは1920年代はニューヨークでシルエットカッターの仕事をしつつ、1920年代中頃よりマジックのプロ活動も併用するようになります。高級な社交場でクロースアップを中心に演じられていたようです。1929年4月からニューヨークを離れ、米国南部へ仕事の関係で家族と共に移動しています。この年の秋の株価大暴落による世界大恐慌により、ニューヨークでは仕事がない状態で、バーノンがニューヨークで活動を再開するのは、1934年初旬になってからです。
天海は1930年の春にボストンを訪れた時に、スライハンドの名手でもあるサイレント・モーラと交流しています。彼はチャイニーズ・ステッキを初期段階で有名にしたマジシャンで、手から手へボールを移動させるモーラボールでも有名です。著名なプロマジシャンとの交流は彼が最初かもしれません。
1930年の秋に天勝の要請により日本へ一時帰国します。1932年10月にロサンゼルスに戻りますが不景気が続き全く仕事がなく、この頃にジェラルド・コスキーと交流されています。1974年にコスキーとアーノルド・ファーストとの共著で、ハードカバーの天海の本を発行されたアマチュアマジシャンです。多くのマジックを考案されており、天海とは最も親しい関係になります。天海は1933年の春にはシカゴ万博に2ヶ月出演していますが、この時にジョー・バーグの呼びかけでマジシャンの交流会が持たれ、ターベルやブラックストーンとも親しくなります。この万博にはバーノンもシルエットカッターとして出店しており、二人の初めての接近となりますが天海と交流することはなかったようです。
天海は秋にニューヨークへ戻りますが、ほとんど仕事がない状態が続き、1935年の夏まで郊外で借りた住居でのマジック研究活動が中心となります。この頃に親しく交流したのがアル・ベーカーとマルホランドです。アル・ベーカーはマジックショップ経営者であり、多くのマジックを考案されています。特にジャリを使ったマジックが有名でお互いに影響を受けていたと思います。また、マルホランドは親日家で東洋風な衣装のマジックを演じたこともあり、スフィンクス誌の編集者でもありました。さらに、Dr Daleyからカップ・アンド・ボールを見せてもらい、ヒンズーヤーン(短くちぎった糸の復活)を教わっています。1933年末で米国の禁酒法が廃止され、1934年よりナイトクラブやキャバレーが増え、マジシャンの仕事もそちらが中心となります。周りを囲まれた状況でのマジックの研究や演目を増やし、天勝一座のためのイリュージョンの情報や図面も集められていたようです。バーノンは1934年初旬からニューヨークで最高級なカジノドパリにクロースアップで出演し、好評による契約更新で1935年も出演を継続されています。この時期は二人ともニューヨークですが、全くの別環境であったためか二人が会った記録がありません。その後、天海は戦争を挟んで3回の一時帰国を繰り返しています。その期間では、1937年のロサンゼルスでの集合写真にチャーリー・ミラーが写っています。天海メモにも彼の名前がよく登場していますが、この頃から交流があったようです。バーノンが認めたカードの扱いの素晴らしさと知識を持った重要な存在です。彼から得た情報を元にしてブラウエが勝手に記事にして、ヒューガードとの共著で1940年の「エキスパート・カードテクニック」の本が発行されたことは有名な話です。
戦後で著名マジシャンとの交流が多かったのが1953年のシカゴになります。この年の春のシカゴでビル・サイモンと共にエドワード・マルローと食事をしています。また、ロバート・パリッシュとも会われ、彼の解説で天海のイラストによる”Six Tricks by Tenkai”の冊子が発行されます。夏に狭心症で倒れ、1ヶ月間の安静状態が続き、その後もシカゴで療養生活となり、その時に多くのマジシャンと会われています。ル・ポールやオキトだけでなく、マルローとはもう一度会われています。マルローからはミラクルチェンジを見せられますが、パームのことについてはどのように話されていたのかが気になります。
少し回復し、1954年春のシカゴのSAMとIBMの合同大会に参加し、この頃にレクチャーツアーで回っていたバーノンと初めて会ったようです。天海のカード・フライト(フライング・クイーン)の改案を見せられます。その後、このバーノンの改案を天海はさらに改案したと天海メモには報告されています。天海はこの作品に関しては何回も繰り返して改案されています。この後、天海はロサンゼルスに戻り、ジェラルド・コスキーやジョー・バーグなどのマジック仲間とラウンドテーブルを開催して、マジックを楽しみながら5年間のんびり過ごすことになります。この間にバーノンが訪れて、より深い交流がなされたようです。1957年のロサンゼルスのル・ダーマン宅で天海夫妻やバーノンと共に数名の仲間が写っている写真が”The Magic of Tenkai”に掲載されていました。そして、1958年に天海夫妻は日本で住まわれることを決意して帰国されます。
天海パームが初登場するのは、戦時中のハワイにおいて発行された”Tenkai’s Manipulative Card Routine”の冊子です。ビル村田著で天海がイラストを描かれた天海の最初のマジック書です。ステージやパーラで演じるカードマニピュレーションの手順で、天海のオリジナルな方法を中心に構成されています。この冊子が戦時中にシカゴへ送られて、敵国となる天海の作品であるので、戦争が終わったら発売するように一筆書き添えたのですが、すぐに完売となったそうです。(補足1を参照)この冊子には発行年の記載がなく、正式にマジック誌に広告が出たのは終戦の1945年夏です。この冊子の最後で天海パームの元になるパームが初登場しています。Peculiar palmやPeculiar thumb palmと書かれています。特殊なサムパームといった意味です。
天海パームの名前を世界的に有名にしたのは1957年発行のルイス・ギャンソン著”The Dai Vernon Book of Magic”です。一つの項目として「天海パームの応用」のタイトルで、天海パームの解説とカラーチェンジへの応用や入れ替わり現象”The Jumping Jack”が解説されていました。一般的に私の世代では、天海パームといえばバーノンの本で解説されたパームのイメージが強かったと思います。カードの両サイドの外エンドに近い部分を親指と手掌で挟んでパームしているイメージです。カードのほとんどの部分が、手掌とは90度近い角度で手前側に大きくはみ出してパームされた状態です。はみ出していても客の目線や角度に気をつければ使えるパームだと思っていました。
2014年に「天海パームについて」のコラムを掲載しましたが、その時にはバーノンの本での天海パームの印象のまま、マルローの方法との違いを報告していました。ところが、2015年の天海フォーラムでは天海パームを使った天海のフライングクイーンが解説され、天海パームの状態が大幅に違っていましたので驚きました。カードをクラシックパームから手前にずらしたリアパームがありますが、それを親指側にずらしたような状態で、左サイドの中央を親指で保持されていました。カードの右サイドは手掌に当てて、手掌とは少しの角度を持たせたパームとなっています。これは気賀康夫氏による解説で、天海が帰国時に演じられていた方法とのことです。なお、元々のフライングクイーンでは天海パームは使われていません。大阪中之島図書館所蔵の天海メモ3には1957年の記載として、このマジックは改良を重ねて7~8回にわたり改善したが、またまた改良せねばならぬところを発見して改めたと報告されていました。2016年での天海フォーラムでは「天海の足跡」の資料が制作され、その中の第6章では天海パームに限定して気賀康夫氏が解説されていました。そこにはバーノンの方法は天海の方法のままではなく、バーノンが改案した方法であることを報告されていました。
以上のことから、戦時中に制作された本来の天海の冊子の天海パームを再検討する必要を感じました。天海のイラストを見ますと、3枚のイラストで別角度で描かれていますが、16ページの18の図はバーノンの天海パームに近い状態に見えます。しかし、なぜかこの図は解説では使われていません。天海パームへ持ってくるまでの途中経過とも考えられます。17ページの図1と図2が天海パームで保持された状態です。カードの右サイドの半分近くが手掌でカバーされていることが分かります。つまり、本来の天海の図ではバーノンのような極端に手から突出したものではなかったわけです。このパーム状態で右手の裏を客席に向け、4本の指がリラックスして指が開いた状態で、何も持っていないように見せています。このパームはそれまでの海外の文献をいくら調べても、同様なパームを見つけることができませんでした。親指を使ったカードのパームではギャンブラーズ・フラットパームがありますが、それは両サイドの外エンド近くを小指の根元近くと親指で挟んでフラットにパームする方法です。つまり、天海パームは全く新しいタイプのパームとなるわけです。この天海のパームに大きく影響を受けることになるのが、カードマジック界の2大巨頭となるバーノンとマルローです。
1968年に天海のカードマニピュレーションの本が高木重朗訳で発行されています。天海氏からの意見も伺って、高木氏が演じている写真と小野坂東氏のイラストにより全面的に改定された本です。この本の冒頭の「序」で天海氏は「すでに日本開戦当時、ハワイから米本国に向けて売り出したものです。この本が出来たとき、シカゴのアイアランドに、時節がこのようであるから、今、日本人である天海の作品であると言って、これを売り出すのは良くないと思ったら、国際事情が良くなるまで保管しておいて、時を待って発表してほしいと添え書きをつけて送ったのを覚えています。アイアランドの返書には、芸術に国境なし、心配するな天海、という心あたたまる返事でありました」と報告されていました。そして、発売から3ヶ月で売り切れたそうです。
マルローは1954年に「ミラクルチェンジ」のタイトルの冊子を発行しています。この基本となるチェンジには天海パームが使われているのですが、そのパームが天海のものであることや、何を元にしたパームであるのかの記載が全くありません。マルローは技法名をつけるのが上手いのですが、このパームに関してはパームと書かれているだけです。ここで使われたマルローのパームは、天海のカードマニピュレージョンの本で解説された方法とほぼ同じです。これをテーブル上で行うチェンジにうまく使用してミラクルチェンジの名前をつけています。その応用として四つの方法とクリップを使った一つの改案が解説された後で、ミラクルチェンジ2として別の方法が解説されます。この別の方法では天海パームを使わないのですが、この冒頭で初めて天海のカードマニピュレーションの本のことが書かれています。そして、天海の本ではプロダクション用に使われていたものが、天海はチェンジにも使っているのを見せてもらったとして、その方法を元にしたハンドリングが解説されています。天海パームを使うところでは天海の本のことを書かず、パームを使わない方法で天海の本を紹介するのは奇妙なことをされていると思いました。
天海のマニピュレーションの本のことを書くのであれば、パームを使った最初の方法の冒頭で紹介すべきです。そこでは何も書かなかったのは何かの意図があるとしか考えられません。ミラクルチェンジ自体に注目させて、特別なパームには注目させたくなかったのかもしれません。このようなパームは天海が最初であり、マルローは明らかに天海の本を読んで影響を受けているのですから、マナーとしてパームが登場する部分で天海のパームのことを書くのが礼儀です。このようなマルローの悪い点は、マルローの他のことでも多数見られます。その代表がティルトでありコンビンシングコントロールです。いずれもほぼ同じ方法を考案者以外から見せられ、そのことには全く触れずに解説して、マルローの技法のように思わせた歴史があります。ただし、マルローはその応用の仕方が素晴らしく、いくつもの面白い作品を考案する才能があるだけに残念です。そして、それに加えてマルローの奇妙な点が、逆の立場になった場合です。マルローが発表したことのある操作を、マルローの名前をクレジットしていない場合には手紙を出して抗議していたことです。(補足2を参照)
マルローは1954年から1962年までRevolutionary Card Techniqueのシリーズを発行されていますが、その1冊目が上記の「ミラクルチェンジ」となります。そして、バーノンの本に天海パームが解説された1957年に、マルローのシリーズ4冊目の「サイドスティール」と5冊目の”The Tabled Palm”が発行させます。いずれにも天海パームを使っているのですが、「サイドスティール」ではマルローポジションの名前で解説され、”The Tabled Palm”ではアングルパームの名前になっていました。この二つは同じと言ってもよいパームで、ミラクルチェンジでのパームとの違いは親指の位置がカードの左サイドの中央あたりになっていたことです。さらに、1961年発行の「カードスイッチ」の冊子では、アングルパームとほぼ同じであるのにリアアングルパームの名前となっていました。これらの本のシリーズは2003年に合本となって発行されています。
ところで、天海フォーラムの冊子の部分でも報告しましたが、気賀康夫氏によりますと、1958年に帰国されてからの天海のパームは、カードの外側のエンドが指の根元のすぐ近くまで来ていたそうです。つまり、マルローが改良したポジションとほぼ同じです。テーブル上で天海パームが見えないようにするには、あまり手首側に突き出さずに、角度に強い位置に天海も修正されていたわけです。そして、もう一つは、身体を大きく左向きにされていたことです。残念ながら、このような天海自身の天海パームの変化は海外には知られていません。エルムズリーカウントも最初の段階から20年近くの間に大きく方法が変わりました。改案者が多数いるのですが、エルムズリーのカウントであることには変わりありません。マルローも天海のパームの自分の改良版として強調したかったのであれば、天海をクレジットして、そのマルローポジションとすれば多くのマニアが納得していたと思います。そのようにしなかった点にマルローの問題を感じます。
マルローの天海パームを使った各種の発想は素晴らしく、その点では大きな功績があるだけに残念です。マルローの作品数の多さと、その素晴らしさに魅力を感じてマルロー派としてファンになるマニアがいる反面、マルローの特殊な行為に反発を感じてアンチになるマニアが出現するようになります。マルローは天海が嫌いでクレジットしていないわけではなく、逆に尊敬の気持ちを持ち続けていたようです。フライングクイーンに関してはブラウエが先に発表と書いた上で、天海の現象を元にしていると1962年のNew Topsで報告されています。その根拠は明らかにせずに天海を敬うような記載です。そうであるのに、天海のパームに関しては、天海をクレジットしないことが不思議で仕方ありません。マルローは素晴らしい発想がたくさんあるのに、マルローを代表する技法や操作が考案できていないことの焦りがあったのでしょうか。結局、マルローの独自性のある代表操作は、1964年のインコンプリートフェロウと1965年のオーラム・サトルティとなりそうです。もっとあるように思えますが、誰もが納得できる独自性となると、この二つぐらいであることに私も驚いています。もちろん各種技法に新しい考えを導入された功績はよく知られています。マルローは1991年11月に亡くなられています。
マルローからの手紙に対して、面白い対応をしていたのがハリー・ロレインです。1962年発行のハリー・ロレイン著「クロースアップ・カードマジック」の作品の中で、左薬指を使ってボトムカードを下へ引いてブレークする操作を使っていました。これを読んだマルローから、以前にマルローが発表したプルダウンの操作であるとの手紙が届きます。1956年発行の”Classical Foursome”の冊子には左小指でプルダウンの操作が書かれていたことが分かり、次に同様な操作を書く時にはマルローの名前を明記すると約束されたようです。その後、1967年にロレインが”Deck-Sterity”の本を発行され、その中で小指と薬指を使ってダブル・プルダウンの操作を使った作品が解説されます。この作品の後のアフターソートで、このプルダウンの操作に関して、マルローから手紙があったことと、調べると確かにマルローの解説が最初であったことを報告しています。そして、その記載の後でロレインは、このようなちょっとした操作は、自分が小さい頃から使っていた方法であり、マジック仲間の2~3人も何の本も見ずに自然に使っていたことを聞いたと書き加えていました。
バーノンが天海パームの名前で大々的に発表されたのが1957年です。しかし、それ以前にバーノンは、天海パームを応用したマジックを見せて天海をびっくりさせています。そして、天海パームを使っていることを告げて2度びっくりさせて、バーノンは楽しんでいたようです。このことは1983年のバーノンのビデオ”Revelations”の第3巻の中でバーノンが話しています。これを天海に演じたのは、初めて会われた1954年の可能性が高そうです。ところで、なぜバーノンは天海の名前を大々的に宣伝するかのように天海パームを発表されたのでしょうか。バーノンもマルローのミラクルチェンジの冊子を読まれ、パームを使う部分で天海をクレジットしていないことに問題を感じていたと考えられます。そのことから、天海のパームであることを強調されたと考えるのは考えすぎでしょうか。
2014年の天海パームのコラムでは、天海パームを使ったベンザイス・コップの話が多くなり、複雑でまとまりのない内容になっていました。ベンザイス・コップは最近でも話題になっているレナート・グリーンのスナップディールの元になるものです。レナート・グリーンは独自で考えたようですが、1962年には同様な考えが既に発表されていたわけです。レナート・グリーンはラテラルパームを使っているだけでなくいろいろ違いがありますが、ベンザイス・コップは天海パームを使っている大きな違いがあります。さらに、これにもマルローが関係してきます。今回はこのことに触れないで、天海とバーノンを中心にまとめるつもりでしたが、マルローと天海パームとの関係を避けて通ることができませんでした。
今回の天海とバーノンの接近状況を調べる上で、2019年発行の加藤英夫著「ダイ・バーノンの研究 第1巻」が大変参考になりました。また、天海パームに関しては2015年の石田天海フォーラムでの資料の気賀康夫・小川勝繁共著「天海タッチ」や、2016年の資料「天海の足跡」の第6章の気賀康夫氏の「天海パーム」で大きな刺激を受けて再調査したくなりました。さらに、天海パームについては、以前に、小川勝繁氏からも貴重な助言をいただきました。ありがとうございました。