リンキングリングの歴史には分からないことや意外なことがたくさんあります。一番の驚きがダイ・バーノンの6本リング(シンフォニー・オブ・ザ・リング)をカーディニが自分の考案だと言っていたことです。なぜ、このようなことになったのでしょうか。そもそも、リンキングリングの発祥についても分からないことばかりです。いつから演じられていたのか、どこが発祥となるのかも確定できていません。1550年のヨーロッパの文献に二つのリングを空中へ投げ上げてつなげたことが書かれていますが、この記載が現在分かっている最初のものとなります。1530年頃のスペインのマジシャンが演じたそうです。
チャイニーズリング(チャイニーズリンキングリング)の名前となるのは、1800年代前半に中国のマジシャンがヨーロッパで演じたり教えたりしたことからのようです。中国芸能史の本で調べても、中国の文献上での最初の登場が清代早期(17世紀~)の著名な女性芸人の「九連環」の戯法でした。輪を1個ずつ投げ上げて輪と輪をつなげていたと報告されています。それ以前から演じられていたと思うのですが、今回はその記録を見つけることができませんでした。清代以前となる明代の雑技では輪の使用の報告がありますが、つなげる現象はしていなかったようです。
意外であるのが、1764年の日本の「放下筌」の「金輪の術」が、リンキングリングの方法を解説した世界最初となることです。これらの中で最も気になるのがバーノンとカーディニの6本リングの問題です。
今回はこのことを中心に調べてみました。その前にお二人について簡単に紹介しますと、カーディニは20世紀前半を代表するステージのスライハンドマジシャンです。演技、技術、ミスディレクションなど全てが素晴らしく、一つのマジシャンのイメージを作り上げた存在と言っても過言ではありません。そして、ダイ・バーノンは簡単には語りつくせない20世紀全体を通して活躍されたクロースアップマジシャンで、マジック界全般に多大な影響を与えた人物といえます。
リンキングリングと言えばダイ・バーノンの6本を使った「シンフォニー・オブ・ザ・リング」が有名です。1958年にこのマジックだけをルイス・ギャンソンにより解説され、このタイトルの本として発行されています。3連結リングと2本のシングルと1本のキーリングの合計6本が使われています。カーディニはこの組み合わせの6本リングを1923年の英国のディーラー店員時代に、1日で98組も売り上げた記録を持っています。多分、この組み合わせの6本リングはカーディニが最初かもしれません。そうであるのに、「シンフォニー・オブ・ザ・リング」の本にはカーディニの名前がどこにも書かれていません。カーディニは奥さんや交流のあった人物には、バーノンの手順は自分のものであると主張していたそうです。20世紀中の文献にはこのことが記載されることがありませんでした。しかし、2007年にジョン・フィシャー著による570ページもあるカーディニの本が発行された時に、467ページから471ページにかけてカーディニ側からの報告やそれに関連した各種報告がされていました。お二人が亡くなられてかなりの年数が経過しているにもかかわらず、このようなことが取り上げられるのが残念に思います。
カーディニの本を読みますと、470ページにはカーディニが亡くなる3年前にDanny Dewに宛てた手紙には「バーノンのリングの手順は私の創作であり、そのことを知っている人はほとんどいない」と書かれていたそうです。また、カーディニの死後、奥さんがリングの話をする時には表情が変わり「ダイが夫の完全な手順をとった」と言っています。カーディニ側ではそのように思っていたのに、バーノンのリングの本には他の数名のマジシャンの名前があっても、カーディニの名前は全く書かれていなかったことに、かなりの怒りを夫婦で持たれていたような記載になっています。二人の方法を比べますと、全体の構成と一部分がカーディニの方法と関連していますが、多くの部分に違いがありました。私の個人的な考えでは、二人のオリジナルに対する考え方に違いがあることが、このようなことになったのではないかと思いました。
バーノンのリンキングリングの本にカーディニをクレジットしていなかったのは、その本の著者であるルイス・ギャンソンが書き漏らしたのではないかと思っていました。しかし、1983年のバーノンのビデオ”Revelations Vol.4”の”The Symphony of the Rings”の解説でもバーノンはカーディニの名前に触れることがありませんでした。つまり、バーノン自身がカーディニをクレジットする必要性を感じていなかったことになります。バーノンは7~8才頃よりリングに興味を持ち、少ない本数から多数使う方法までいろいろと試した中で、最後には6本になったと述べています。バーノンはリングのあらゆる方法に精通しており、カーディニの方法は8本リングの組み合わせからダブルのリングを取り省いてシンプルにうまく手順化していても、各部の手法に新しさを感じていなかった可能性が考えられます。
バーノンの本職はシルエットカッターです。若い頃のバーノンは、マジックではマニアやプロマジシャンを驚かせる斬新な発想と技術力で話題の人物となり、1920年代中頃にはプロマジシャンとしての活動もするようになります。若い頃のバーノンは超マニア的要素の強いマジシャンであったといえます。1938年頃にステージマジックを演じた時には、ハーレクインの衣装で4本や5本リングを演じたり、1941年頃には中国人の衣装で12本や16本リングも演じていたようです。試したいアイデアがいっぱいあったそうですが、最終的にはシンプルにして6本のシンフォニー・オブ・ザ・リングを完成させることになります。カーディニが初めてニューヨークに来た時からバーノンとは深い交流関係になりますが、彼のリングの演技にどの程度影響を受けていたのかは全く分かっていません。
リチャード・ロスの3本リングは、リングの客へのあらためがなくBGMに合わせて演じるだけですが、そのような演技はバーノンの4本リングが最初となるのかもしれません。バーノンのRevelationsのビデオによりますと、その当時のリングは8本が一般的で、4本はリンキングリングのマジックではないと批判もあったそうです。しかし、不思議さを中心にしたよく考えられた手順になっています。キーリングをいろいろと移動させたり、レギュラーリングとすり替えてキーリングの存在を分からないようにしています。また、最初と最後の4本をカウントしながらのリングのあらためもリン・ロン・リン・ロンといった鐘の音に合わせる演出が加えられています。2011年に制作されたLeventの”Ultimate Guide To The Linking Rings”では、バーノンの4本リングをレベントが再現されていますのでたいへん参考になります。このDVDはUGM社より日本語字幕版で発行されています。レベントの説明では、この手順構成はカーディニの6本リングの影響を受けていると報告されていましたが、私はその意見にそのまま賛同することができません。全体の構成と最初の部分だけは似ていますが、それがカーディニから影響を受けたものか違うのかをバーノンが何も語っていないからです。バーノンであれば、影響を受けていた場合には、そのことを語るはずであると信じています。また、途中からは違っている部分が多く、最初の部分もカーディニ独自のものと言えるのかも疑問があるからです。
2007年のカーディニの本によりますと、1923年にカーディニは1日で98組のリンキングリングを売り上げた記録が報告されています。これはクリスマスセールで店内に多くの客がつめかけており、リンキングリングのデモ演技が最も注目を集めやすい商品であったと考えられます。正確な記載がありませんが、当時の一般的な8本ではなく6本であったことや、少し小さいサイズのリングであったことから価格もかなり安かったのではないかと思います。さらに、カーディニのシンプルで効果的な手順に人気が集まったと考えられます。この時の方法やその後のカーディニが演じた方法が文献上に解説されたことがありません。1924年や25年のオーストラリア時代はリングが演じられていた可能性がありますが、1926年にアメリカへ移ってからは1940年頃まではほとんど演じられていなかったのではないかと私は考えています。
ボードビル(日本の寄席のような舞台)では、カーディニの有名なシガレットやボールやカードの演技が中心で、ボードビルのマジシャンとしては特別に高い出演料を得ていました。ボードビル劇場がほとんどなくなった戦後では、船上のフロアーでチャイナ服を着用して演じる演目にリングも含まれていました。570ページもあるカーディニの本では、リンキングリングの演技の内容の記載がなく、演じている写真もありません。チャイナ服を着て背中から撮影された写真で、上げた右手に小さいサイズのリングらしいものを持っているのを見つけた程度です。
カーディニの主治医であったDr.Neporentがリングを教わっていたことがカーディニの本に書かれていました。上記のレベントのDVDにはカーディニの方法を実演されていますが、何を元にされたのかの記載がありません。カーディニの本で紹介されていたDr.Neporentの方法を元にされていた可能性が考えられます。この演技が1923年のままであるのか、大幅に変更されているのか全く分かりません。カーディニもバーノンもリングがバラバラであることを示しつつ3連結の3本とチェンジする方法としてOdinカウントをしつつチェンジする方法が採用されています。これはフランスのOdinにより1920年頃より演じられ、1929年にフランス語で発表され、1931年には英訳されています。英訳をしたFarelliは、1924年にOdinからリンキングリングの指導を受けていました。カーディニはOdinの方法が本で発表される以前の1923年から独自でこの方法を考案されていたのでしょうか。または、英国のディーラー時代にOdinの方法の情報を得ていたのでしょうか。それとも、1923年ではこの方法が使われておらず、かなり後になってからこの方法を取り入れたのでしょうか。分からないことばかりです。この部分に関してのバーノンは、カーディニの影響を受けたというよりもOdinの方法を使っている認識しかなかったと思います。
カーディニは自分のレパートリーの演技の解説は基本的に行っていません。それ以外であれば、ターベルシステム(ターベルコース)やグレーターマジックでカードやボールのアイデアを知ることができます。また、「ヒューガード・アニュアル・オブ・マジック1938年~1939年」にはカーディニの三つのリンキングリングのアイデアが掲載されています。三つともクローズしたキーの特殊な使い方のアイデアです。キーリングが中央にある6連結の状態で、両端を左右の手に持ってひねりを加えて3連結ずつに分割する方法です。また、その反対に、二つの3連結をゆらして下端を当てて6連結につなぐことも解説されていました。いずれも特殊なものばかりです。
レベントのDVDによるカーディニの演技では、最初に6本がバラバラであることをカウントしながら示し、4本を左腕にかけて、残りの2本をシンプルな方法で連結させたりはずした後、他の4本を2本に加えています。左手の6本から右手に1本ずつカウントして3本を右手に取り、空中へ少し投げ上げて3連結したことを示し、客に渡して調べさせています。シングルの2本も他の客に渡して調べさせます。3連結を返してもらい、手に持っていたキーリングを加えて4連結にします。ブランコ、地球、咲く花の造形を行い、シングル2本も返してもらい6連結にします。これを一気にキーリングに5本を集め、キーから5本をバラバラに床へ落として、最後にキーリングも落下させて終わっています。最後の床への落下以外は、ディーラーのデモ演技としてシンプルで見栄えし、多数のリングを売り上げたことが納得できる手順となっていました。しかし、シンプルすぎて物足りなく感じる人も多いと思います。それに比べてバーノンの6本リングは、独自性のある技術と面白さのある要素、そして、不思議さをたっぷり加えられた手順になっていると言えます。これをカーディニが自分の手順だというのも奇妙なことであるし、バーノンがカーディニの名前をクレジットしなかったことも問題に感じています。
二人の方法を比べますと、同じ部分とまったく違う部分があります。その比較のためにバーノンの方法を順番に見てゆきます。まず、リングの6本の構成が同じで、演技の最初の部分の構成も同じです。ドロップカウントで6本がバラバラであることを示し、4本を左腕にかけて、残りの2本でつないだり外したりしています。その後、Odinカウントしつつ3本目で3連結とすり替え、その3本を少し空中へ投げ上げて3連結になったことを示して客へ渡しています。ここまでの構成がカーディニとほぼ同じです。ただし、この部分で大きく違っている点が、2本でつないだり外す部分にバーノンの独自性が発揮されていることです。この部分のテクニックに関しては、1957年発行のバーノンブックに詳しく解説されています。キーリングでつなげられた2本のリングを巧妙なあらためによりキーリングの存在を感じさせない”Spinning The Rings”はバーノンの考案です。また、ぶら下がったリングを引き抜くように外す”The Pull Through Method of Unlinking”もバーノンの考案です。レベントのDVDではジャック・ミラーも同様な方法を発表されていることを報告されています。2回目の連結時にリングを上から叩きつけて連結する”The Crash Linking”は、ハン・ピン・チェンが演じているのを見て取り入れたと報告されています。そして、一方のリングを横に半回転のツイストさせて連結させたり外す操作はバーノンの考案とは書かれていませんが、バーノンのリングの特徴的な操作となっています。
3連結を客に渡した部分からカーディニとは全く違った内容になります。残りの3本も連結させて演者が持ち、1本ずつ外す操作をするのですが、客にも同じ操作をさせます。もちろん、客は外すことができません。この後、バーノンは客の3連結を返してもらい、かわりにシングル2本を渡しています。3連結にキーリングを加えて4連結にするのですが、3連結の最下端からキーリングを移動させてトップに連結させています。4連結の天地をひっくり返し最下位のキーリングをもう一度トップまで移動させてつなげています。そのあと、トップのリングがゆっくりと下まで転がるように移動する”THe Falling Ring”を使っているところが、面白い動きを見せようとするバーノンの特徴です。この後、少し変わった連結状態を見せています。そして、1本を返してもらい5連結にして「あぶみ」の形を作って、残りのシングルも返してもらい6連結にしています。6連結から一気にキーリングに5本が集まった状態にして、キーリングとレギューラーの1本をスイッチして抜き取り、普通のリングであることを示すために投げ上げたり、床にバウンドさせたり、客に渡して調べさせたりします。このリングを元の状態に戻し、キーリングから1本ずつ外して、6本がバラバラであることをドロップカウントで示して終わっています。
これをカーディニの方法と同じと考えるのには無理があります。それでもカーディニが、これを自分の方法だと主張していたとしますと、彼の考え方や晩年の精神状態との関わりがあると思っています。カーディニは誰にも負けない努力を続けて新しいレパートリーを完成させてきた自負があるのだと思います。そのことからか、カーディニの演技スタイルやマジックに近いものを演じただけで、自分の芸を盗んだと数名のマジシャンに対して訴えたことでも有名です。特に1929年の世界恐慌により娯楽どころではなくなり、ボードビル劇場が次々と閉鎖され出演する機会が少なくなる中で、喋らずBGMだけでシガレットやボールやカードを演じるマジシャンには、ことごとく盗作者として訴えています。その被害を受けた一人が石田天海氏で、1933年にニューヨークへ戻ると、カーディニから自分の芸を盗んだから劇場に出させるなと訴えられることになります。天海氏はカーディニの影響を受けていますが、同じにならないような独自性の追求と努力をしてきたのに、カーディニに訴えられたわけです。1931年に初めて帰国した時に演じたカードやシガレットはカーディニに近い演技ですが、米国ではその演技は行なっていません。結局、天海氏は通訳を通して抗議した結果、うまさで決着をつけることになり、SAMの役員の審査で別々の劇場でシガレットとボールの演目で奇術合戦することになります。「石田天海奇術50年」の本には当時のことが詳しく書かれており、審査の結果はシガレットは引き分けで、ボールは天海氏が勝利します。話し合いの結果、カーディニはボールの演技を引っ込め、天海氏はシガレットの演技を外すことになります。その期間についての記載が何もありません。さらに、カーディニの本では天海氏との奇術合戦のことが全く書かれていませんでした。調査は不十分ですが、当時のマジック誌でも見つけることができませんでした。非公開の奇術合戦であったからでしょうか。それでも、この奇術合戦のおかげで天海氏の名前が知られるようになり出演契約も増えたことが天海氏の本で書かれていますので、マジック界では話題になっていたことは間違いないと思います。カーディニはあこがれの存在でありながら、高慢で嫌われる孤立した存在でもあったわけです。
戦前のバーノンとカーディニの共通点は、特別な場合を省き自分のマジックの解説をしてこなかったことです。特別な場合とは、バーノンの奥さんの出産資金のためであったり、カーディニが米国入国の最初にお世話になったターベルへ本の発行の手助けをするためです。ところが、戦後のバーノンは大きく考え方が変わります。戦地への慰問活動をされていますが、戦争の存在が大きく関わっているのかもしれません。また、年齢が50を過ぎたことや多数のレパートリーがあったことも関係していそうです。完成度の高い作品は後進のために残すべきだと思われたのかもしれません。戦後すぐに発行された「スターズ・オブ・マジック」での中心的マジシャンとなるだけでなく、レクチャーも行なっています。1955年にはヨーロッパ・レクチャーを行い、その後、ルイス・ギャンソン著によるバーノンの数冊の本が発行されます。そして、1963年よりマジックキャッスルに招かれて専属のマジシャンの待遇となり、マジックの知識と経験を生かした新たなマジック人生を歩むことになります。
それに対してカーディニは、一切レクチャーを行わず、自分の本も発行されていません。晩年は高齢化により出演する機会も減り、マジック仲間と交流することも少なかったと考えられます。バーノンとは対照的なマジック人生となっていたのではないでしょうか。カーディニが特に嫌っていたのが、1946年にファンカードプロダクションの詳細を書き、1950年には火がついたシガレットのプロダクションの詳細を書いたルイス・ギャンソンです。そのギャンソンによるバーノンの本が多数発行されたことには、カーディニの気分がよくなかったようです。最晩年のカーディニは特別な精神状態になっていたのではないでしょうか。バーノンはカーディニがそのような状態になっているとは思ってもいなかったのかもしれません。カーディニの本の468ページにはHerb Zarrowが記憶していたこととして、カーディニとバーノンがリングの本数のことでセッションしていたことを報告されています。3本から16本のリングのそれぞれの有利な点と不利な点を出し合う中で、カーディニの6本リングの有利性がZarrowには納得できたとのことです。このセッションが行われたのが何年のことか分かりませんが、少なくとも3連結が入った6本リングを取り上げるときにはカーディニの名前を入れるべきであったと思います。クレジットされておれば、晩年のカーディニの気持ちが少しやわらいでいたのかもしれません。
1926年のニューヨークで初めてカーディニがバーノンと出会った時の話が有名です。バーノンとラリー・グレイの共同のシルエットカッターの店でバーノンがカーディニにカードの操作をいろいろ見せることになります。綺麗にカードをファンに広げただけでなく、ファンプロダクションも楽々とこなし、同僚のラリー・グレイがもっと美しく行うのでカーディニは驚いてしまいます。カーディニは独自に開発して得意芸としていたからです。バーノンはこれぐらいのことはニューヨークのマジシャンであれば誰でも習得していると嘘をつきます。実際にはニューヨークでもこの二人が特別な存在であったわけです。バーノンはメキシコから来たフロッグマンが演じているのを見て習得したようです。最初の出会いからバーノンはカーディニの高い鼻をへし折るのを楽しんでいたようです。なお、カーディニがAランクのステージへ出演できる契約の支援をしたり、英国ウェルズなまりの英語が彼の演技に合わないのでサイレントで演じた方がよいと指摘したのはバーノンでした。家族ぐるみの交流をしていた時期もあり、バーノンへの恩を感じていたためか、1958年のバーノンの6本リングの本が発行された時もバーノンへ不満を言うことはなかったようです。
不満を言っていなかったことは、2007年7月号のGenii誌のカーディニの本の書評の中でジェイミー・イアン・スイス氏が独自に調査されたことを報告されていました。その後も二人の関係は良好であったそうで、カーディニの本の著者に関してはかなり厳しい批評をされていました。最晩年の特別な精神状態での言動に奥さんも影響を受けていたとも考えられ、バーノンが盗んだ容疑者のような記載は著者にも問題があることを指摘されていました。カーディニは1973年に亡くなりますが、晩年のカーディニにとってはマジックキャッスルで優遇されている友人のバーノンに対して、6本リングのクレジットにカーディニの名前を入れていなかったことの不満が徐々に拡大していったのではないかと私は思ってしまいました。二人に関連した記事として、2019年の加藤英夫著「ダイ・バーノンの研究 第2巻」にも詳細に興味深く報告されていますので、是非、お読み頂ければと思います。また、2013年の私のコラムのカーディニについての記載でも触れていますので参考にしてください。
よく考えられたマジックですが、一時期はこればかり見る機会が多いこともありました。個人的に好きになれなかった部分が最後です。同じ繰り返しで1本ずつキーリングから外してバラバラにした後で、さらにバラバラの6本であることを示して終わっていました。最後がダラダラしていて面白くない部分です。6連結の状態から一気にキーリングに5本がぶら下がった状態で終わってもよいし、そのキーリングを外して、ドロップカウントで素早くバラバラ状態を示して終わってもよいと思いました。または、6連結の状態で終わってもよいのではないかと思います。次々とつながって6連結で終わるのは結婚披露宴向きと言えるでしょう。
もう一つの気になる点が、客に3連結を渡してDo As I Doの現象を行う部分です。演者は3本をバラバラに外せて、客にはできない現象です。このようなマジックは1980年代以降では演じられることがかなり減少しました。客によっては不愉快に感じる可能性もあり、客を楽しませる立場から客にも出来るように方向転換されるようになったからです。1990年に海外で発行された高木重朗氏の本のリンキングリングでは、客にも演者と同様にできる工夫が加わった作品となっていました。1992年には東京堂出版より「高木重朗の不思議の世界」として日本語版が発行されています。1980年代に何度か高木氏のリングの演技を見る機会がありましたが、リンキングリングがこれほど客と共に楽しむことができるマジックであることを再認識できました。高木氏のマジックには素晴らしいものが多いのですが、その中でもこのリンキングリングが一番気に入ってしまいました。
日本では造形を中心としたリングが中心でしたが、マニアの間では1960年代から70年代前半にかけてはバーノンの6本リングが中心になっていたように思います。その後、リチャード・ロスの登場で3本リングをする人が一気に増えました。私もその中の一人です。カッコ良さにあこがれて必死で習得しましたが、実際に演じて分かったことは、リチャード・ロスが演じるから絵になるわけで、私向きではないことを痛感しました。また、リチャード・ロスは他のテンポの良い演目やラストの時計の演技との組み合わせで使っているので、静かなムードのリングの演技が上手く計算されたものであることがわかります。日本でレクチャーされた時に宮中桂煥氏がリングを触らせてもらうと、思っていた以上に重いことが分かったそうです。理由を尋ねますと、その方が良い音がするとのことです。結局、方法だけをマネしても思っているほどの効果が得られないことが分かります。1980年代中頃になって、感激して面白いと思ったのが上記でも報告しました高木氏のリンキングリングです。その頃より小さいサイズのポケットリングがブームになり始め、その後、トリックスの新城氏の方法により、あり得ない現象を見せられることになります。そして、紀良京佑氏のポケットリングにも感銘を受け、最近ではレクチャーでの緒川集人氏の方法も面白いと思いました。ステージだけでなくクロースアップの演目としても重要な存在となっています。
日本のリンキングリングでバーノンを感激させたのが澤浩氏の演技です。2013年の宮中桂煥著「澤浩の奇術」で詳しく解説されています。一つのリングが上から下へ転がり落ちる現象をバーノンは4連結のリングで演じられましたが、澤浩氏は5本にして、トップにあるリングが5連結を転がり落ちて下から抜き取れるようになっていました。この現象にはバーノンも驚いたと思います。また、5本がバラバラであることをカウントで示した後で、一気に5連結に変化させるインパクトには圧倒させられます。そして、2連結でぶら下がっているリングを横へ引き抜くバーノンの方法も大幅に違った現象に変えられています。上側のリングの中へ手を入れてぶら下がったリングを前方へ抜き出し、その後、それを手を入れていたリングに通過させて手前へ引き抜く2段階の現象へと飛躍させていました。 最後に造形についてですが、1946年発行のFitzkee著”Rings in Your Fingers”では厳しい批判が書かれています。造形といっても多くの場合少しも似ていないだけでなく、このことに時間を取りすぎて最も重要なつながったり外れたりする現象の邪魔になるとまで書かれています。そして、手順の中に造形を含めないことをお勧めすると結んでいます。最近では造形が行われないようになっていますが、久しぶりにネットでアダチ龍光氏のリンキングリングの映像を見て感激しました。話術の素晴らしさとテンポよく形を造られるだけでなく、最初に全てのリングを客に調べさせた後でつなげていますので不思議さが強烈です。そして、2本をつないだり外したりの繰り返しも一般客への不思議さが分かりやすく楽しい最高級の演技でした。最後の全てのリングを使った灯篭からスピーディーにまとめて全てがバラバラであることを示すまでのスピード感があり、造形には話術とテンポよさが必須だと思いました。
今回のテーマは「リンキングリングの歴史の疑問点と意外点」としてまとめる予定でした。しかし、書き始めますとバーノンとカーディニの6本リングの問題だけでかなりのボリュームとなりました。そこで、急遽、そのことだけのテーマに変更することにしました。歴史の疑問点に関しては「はじめに」の部分で報告しましたが、意外点についてはここで少し紹介したいと思います。まず、意外であったのが、1764年の日本の「放下筌」の「金輪の術」が解説されたリンキングリングとしては最初となることですが、この解説のイラストも意外でした。手に持っているキーリングのイラストが、手から離れた位置でオープンキーの状態で描かれていたからです。なぜ、このような描き方となったのでしょうか。他の意外な点として、1868年のフランスのロベール・ウーダンの本にはクローズしたキーの説明とイラストがあり、この当時から既に三つのクローズキーの方法が解説されていたことには驚きました。多数のリングを連結させた時に、中央付近にあるキーリングを手に持てないことが多いからのようです。また、19世紀から20世紀中頃にかけての演技の最後には、1本のキーリングに全てのリングをまとめた状態から、バラバラに床へ落下させて終わっていたのも意外でした。リングの造形も日本と西洋で違いがあることも意外です。西洋では3本か4本での造形に対して、日本では6本での造形が主流で、最後に6本から12本を使って大きな灯篭を作っているのが特徴的です。西洋では灯篭を作っても馴染みがないので、十字架や全てをつなげて示し、最後にキーリングにまとめて床への落下につなげています。
これらのことをまとめますとかなりのボリュームが必要となりますので、別の機会に報告したいと思います。今回のテーマに関しては2007年のカーディニの本が中心となりましたが、2013年のコラムでもカーディニについてはまとめていますので参考にして頂ければと思います。また、カーディニの本でのバーノンとの関わりを分かりやすく報告されていたのが2019年発行の加藤英夫著「ダイ・バーノンの研究 第2巻」ですので、是非、お読みいただければと思います。私もたいへん参考にさせて頂きました。そして、リンキングリング全体の歴史に関しては各種資料を参考にしましたが、その中でも今年発行予定の「ターベルシステム・レッスン41~50」のガイドブックに上口龍生氏がかなり詳細に報告されており、その原稿を読ませて頂きたいへん参考になりました。澤浩氏と宮中桂煥氏にはご著書から参考にさせて頂きました。皆様にはお礼を申し上げます。参考文献に関しては、今回の調査に関わった文献だけとさせて頂きました。