バックルカウントの考案者が長い間ダイ・バーノンとされていました。しかし、現在ではバーノンでないことがハッキリしています。バーノン自身が自分ではないと話していたからです。それでも多くのマニアはバーノンと思ったままです。また、2000年以降に発行された文献でもバーノン考案とされたままの記載があります。このような事態の元を作ったのは、1960年発行のルイス・ギャンソンの本と言ってもよさそうです。バーノン考案とハッキリと明言していたのは、この本が最初であったからです。そこで、その本についてと、それとは反対にバーノンではないことをハッキリさせたバーノンのビデオやいくつかの文献について報告します。ところで、バックルカウントが最初に登場するのは、1940年の「エキスパート・カードテクニック」の本です。その後、次々とバックルカウントを使った作品が発表されています。どのような本にどういった使い方をされていたのかも調べましたので報告します。 |
バックルカウントが文献に登場した頃は、考案者名が書かれていませんでした。しかし、バーノン考案のように考えられていたと思います。そして、それを決定するかのように書かれたのが1960年発行の英国のルイス・ギャンソンの本です。"Dai Vernon's More Inner Secrets of Card Magic" の本のバックルカウント解説の冒頭で、30年以上前にバーノンにより考案されたと書かれていました。マリーニがツバをつけて2枚を1枚のようにテーブルへ配ってフォールスカウントしていたのを見て、ツバをつけずに1枚以上のカードを自然な動作でカウント出来るようにしたと記載されています。このバーノンの本はよく売れて再版を繰り返し、世界的にも影響力が大きかった本です。現在でもバックルカウントがバーノン考案であるとしている根拠は、この本に書かれていたことを元にしているケースが多いと考えられます。 |
1983年にバーノンのリベレーションズのビデオが発売されます。この第8巻のカード・アップ・スリーブのムーブの解説の中で、バックルカウントの考案者の話をされています。このマジックとは関係なく、突然、Gary Ouellet がバックルカウントの考案者の質問をされたからです。バーノンは「私の考案ではない、私はプッシュオフカウントを使う。誰だったか言えるが、名前が出て来ない。ロスに住んでいる(他の人物から数名の名前があげられる)そう、エルマー・ビドルだ。私がプッシュオフカウントで彼がバックルカウントだ」と答えられています。ところで、このエルマー・ビドル考案者説は、その後、否定されているようです。フィル・ゴールドステインが聞いたバーノンの説明では、特定の人物による考案ではないと話されていたようです。 |
今回の調査の中で最も手間がかかったことがあります。バーノンのDVDの中でバーノン自身が語っていた記憶が私の頭には残っているのですが、それが何巻であったのかなかなか見つけることが出来ませんでした。後で報告しますが、1992年のJon Racherbaumerの報告の中でも、バーノンのビデオのことも書かれていましたので間違いないと思います。ところが、何巻で語っていたのかが書かれていません。バーノンビデオは10巻以上も発行されています。その後、2巻ずつが1巻のDVDにまとめられて発行されました。DVDのパッケージには、内容が細かく紹介されているのですが、バックルカウントやフォールスカウントの項目がありません。バーノンビデオには50ページほどの内容を紹介した小冊子があるのですが、それを読んでも書かれていません。ネットでいろいろ調べても見つけることが出来ませんでした。最初は語っていそうなところを中心に調べましたが、見つけることができませんでした。しかたがないので、カードの項目は全て調べることにして、やっと第8巻で見つけることが出来ました。たぶん、Jon Racherbaumerも他の研究者もビデオでは見た記憶があっても、後でそれを書こうと思った時に、何巻にあったのかを見つけるのに苦労してあきらめたのではないかと考えたくなりました。 |
1992年のJon Racherbaumer編集 "The Olram File Vol.1 No.11" に "What About The Buckle Count?" が報告されています。その頃のRacherbaumerは、エド・マルローの功績をたたえ、他のマジシャンや著者の問題点を批判している時期でした。ここには、バーノン自身がバックルカウントの考案者でないことをバーノンのビデオで明らかにしていることを指摘しています。しかし、その考案者としてエルマー・ビドルと言っていたのは、高齢になったバーノンの記憶に問題のあることが証明されたと批判しています。これ以外に、1988年のスティーブン・ミンチ著のバーノンの本の「スラップトリック」で、マリーニの話がされている部分でもいくつかの批判をしています。それらについては、少し長くなりますのでここでは割愛させて頂きます。 |
2004年に発行のJon Racherbaumer著 "Counthesaurus" の最初に、Max Maven(フィル・ゴールドステイン)による「パケット・フォルスカウント小史」が掲載されています。1936年(正しくは1933年)にトミー・タッカーの「シックスカード・リピート」が発表され、フォールスカウントにグライドが使われたことが報告されています。その後、このトリックを発展させる中で、バックルカウントが生まれてきました。その考案者として、ダイ・バーノンやチャーリー・ミラーやカントゥ "Cantu" とも言われるようになります。しかし、バーノンがゴールドステインに話したことによりますと、単独の考案者は存在せず、「インナーサークル」のグループの中で進化し、10年近く外部に知られることがなかったとのことです。この本は、2008年に東京堂出版より「カードマジックカウント事典」として日本語訳で発行されています。なお、上記の年数の間違いですが、そのマジックが最初に解説されたのは、1933年のChas. C. Eastman著 "Expert Manipulative Magic" の本であることが分かりました。 |
2007年の電子版Bart Whaley編集 "The Encyclopedic Dictionary of Magic" にも、バックルカウントの考案者はバーノンでもチャーリー・ミラーでもないと報告されています。そして、チャーリー・ミラーによると、メキシコのマジシャンのA. J. Cantuにより考案され、1930年代遅くにチャーリー・ミラーが教わったと書かれています。しかし、それが正しいのかも確証されていません。1930年代にDr Daleyにより使われていたことや、George Sandsの "Super Optical Illusion" トリックによりポピュラーになったことも報告されています。なお、Cantuはチャニング・ポロックのハト出しに影響を与えたマジシャンとして有名です。1940年からハトのマジックが演じられ、1949年に交通事故により52才で死亡しています。 |
1983年のバーノンのビデオで、バーノンはバックルカウントよりもプッシュオフカウントを使うと言っていたのが印象的です。そこで、バーノンの作品では、どのようにバックルカウントが使われていたのかを調べてみることにしました。 |
このGenii誌のバーノンタッチには、バックルカウントに関しての面白い記載もありました。1930年代の中頃のマジック大会で、Dr Daleyが「シックスカード・リピート」のトリックを、グライドの変わりにバックルカウントを使って演じました。当時、このカウントはごく限られた者以外には知られていない技法でした。そのために、会場のベテランマジシャンから演技は評価されながらも、間違った方法だと非難されそうになりました。実際には、不自然な持ち方のグライドよりもバックルやプッシュオフの方がはるかに有効な場合が多いと言えます。このエピソードは、Max Mavenのフォールスカウント小史にも掲載されています。 |
日本ではギャンブラーズパームと言えば、カードが小指側からはみ出した状態でのパームとされています。私も長い間そのように思っていました。ところが、海外の文献では、それをギャンブラーズコップと呼び、ギャンブラーズパームとは別のものとされていることが分かってきました。海外のギャンブラーズパームとは、小指と親指の間で挟まれ、少し湾曲した状態のパームとなっています。何故、このような違いが生じてしまったのか、今回のバックルカウントの調査の中で少し分かったことがありましたので報告することにしました。 |
1940 Hugard & Braue Expert Card Technique |
バックルカウントの考案者がバーノンではないことは分かっていましたが、そのことをハッキリさせるためには結構手間がかかりました。DVDで語っていた部分を探し出すだけでなく、そのことをハッキリ書かれた文献も思っていたほどには直ぐに見つかりませんでした。バックルカウントが使われ始めた初期の文献を読み返すことにより、バーノンのすばらしさがあらためて再認識できました。また、マルローの活躍ぶりも興味深い点です。バーノンのDVDを見直して、重要なことをバーノンがたくさん語っていたことが分かり、再発見がいくつかありました。 |