アメリカでステージのスライハンドマジックの代表者と言ってもよいのがカーディニです。そんな彼と技術対決することになり、そして勝利したのが石田天海氏です。四つ玉対決では勝利し、シガレットでは引き分けとなります。そのことは、天海の「奇術五十年」の本に報告されています。最近では、カーディニのステージ映像がYou Tubeで簡単に見れるようになりました。カーディニの存在感と技術に圧倒されます。そして、このような怪物的大物と対決し優勢な結果を出した天海のすごさを感じます。この技術対決のことがアメリカの文献ではどのように記載されているのかが昔から気になっていました。
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1895年にイギリスの南ウェールズで生まれています。今ではこの年数になっていますが、以前の文献では本によりバラバラでした。1894年、1895年、1896年、1899年となっています。
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天海の「奇術五十年」の本によりますと、1933年の後半にニューヨークへ戻りますと、カーディニが「天海は自分の芸を盗んだのだから劇場に出すな」と言っていることを知ります。とんでもないと抗議しますが納まらず、ビルボードの記者とSAMの代表者の立ち会いで技を競い結着をつけることになります。その結果、ボールは天海の方がうまく、シガレットは互角の判定が下ります。また、天海がカーディニより先にニューヨークに出演しており、先輩になることも分かります。そこで、カーディニがボールをやめ、天海はシガレットをやめることになります。カーディニは従来からの高慢さで人々の反感が強く、この奇術合戦のおかげで名前が知られるようになり、契約が取りやすくなったと報告されています。このような奇術合戦のことが、海外の文献ではどのように記載されているのかが気になっていました。残念ながら、この1933年のことは今回のカーディニの本に全く記載がありません。そのかわりに奇妙なことが報告されていました。それより3年前の1930年2月にカーディニからの訴えがあったことです。天海がカーディニのマネをしているとの訴えです。天海が時計とシガレットの演技を完成させてニューヨーク入りしたのが1929年の夏ですから、その半年後のことです。この時の結論も、天海の演技はかなり以前より日本で学んで使っていたものと認められました。しかし、カーディニの火がついたシガレットのプロダクションは、ボードビルの団体から特別なトリックの保護の権利を受けており、天海は使用を中止することになります。天海の「奇術五十年」には、1930年のことが全く触れられていません。天海にはそのことが伝わっていなかったのでしょうか。または、時計とシガレットは演じても、シガレットだけのプロダクションはしていないといった思いがあったのかもしれません。いずれにしても、1929年10月に起こった世界恐慌の不況でAクラスの仕事がなくなります。Bクラスの劇場で景気の良さそうなところを探して、8人ほどのコーラスガールやレビュー団と共に約1年間の巡業をしています。Bクラスの劇場の場合、演目を厳しくチェックされることがなかったのかもしれません。その後は天勝氏からの要請で日本に帰ることになり、1931年より32年9月まで日本に滞在しています。 |
カーディニの演技は1957年のテレビでの映像をYou Tubeで見ることが出来ます。1930年頃と違いがあるかもしれませんが、基本的には同じと思います。ホテルのロビーで起こる奇妙な現象の演出です。カーディニはシルクハットをかぶり、マントを着用して脇にステッキをかかえ、新聞を読みながらの登場です。アシスタントのスワンがページボーイのふん装をしています。カードのプロダクションの演技で始まり、シガレットを口にくわえながらのマッチやボールやシルクの小わざの演技が続き、火がついたシガレットのプロダクションの最後にパイプをくわえて退場しながら終わっています。これを初めて映像で見た時には驚きました。カーディニの演技と技術のすばらしさに圧倒されたのはもちろんですが、天海が1931年の帰国時に演じた内容とほぼ同じであったことです。天海の「ミリオンカード」や天海の「ミリオンシガレット」とは、基本的にはカーディニの演技であったのかといった衝撃でした。もちろん、全体の印象は同じでも、個々の方法は違います。1931年の帰国時の演技を1936年発行の阿部徳蔵著「奇術随筆」の中で詳しく紹介されています。カーディニの映像に比べて服装も演出もほぼ同じで、演目も半分以上が同じです。大きな違いは、時計とシガレットが加わっていることです。天海の「奇術五十年」にも、その内容の抜粋が報告されています。しかし、その本をよく読みますと、「ミリオンカード」と「ミリオンシガレット」はアメリカで温存していたもので、帰国のおみやげマジックとして披露したと書かれています。これは、どういったことでしょうか。
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1930年の天海への抗議を最初に、1932年4月にはパブロに対して、9月にはキース・クラークに対して抗議しています。1932年4月2日のビルボード誌の広告欄に、カーディニの演技の全体または部分をコピーして演じた場合、法的手段をとることを掲載しました。パブロの場合、1930年にプロとなり、カーディニを明らかにコピーしている部分が多数あります。新聞を読みながら登場してカードプロダクションを演じ、シガレットの演技の最後に葉巻を取り出した後パイプをくわえて退場しています。彼のような存在にカーディニがかなり腹を立てていたようです。特に火がついたシガレットのプロダクションに対しては目を光らせています。奇術研究10号の天海師帰国記念特集号の「天海師を囲む夕」の中で、1929年頃シガレットのマジックをアメリカで演じていたのは3人だけだったと報告されています。天海とカーディニとフラクソンです。カーディニもフラクソンも1926年にニューヨークに来ており、火がついたシガレットの演技を得意としていました。ツーショットの写真もあり、カーディニの本心はどのようであったのか気になっていました。カーディニのコピーだと訴えられたパブロは、同様なシガレットを演じているマジシャンが多数いるとの言訳をしています。それに対してカーディニは、自分以外にはフラクソンだけであり、しかも、彼との間には明確な了解があると反論しています。フラクソンはスライハンドを中心としたマジックを演じていますが、カーディニとは全くタイプの違うマジシャンです。カーディニはサイレントがマッチしていますが、フラクソンはスペインなまりの英語で大いに笑いをとり、それが彼の演技にマッチしていました。火のついたシガレットマジックも、大幅に違う内容であったそうです。それにより、カーディニにとってはぎりぎりのラインで敵対せずにすんだようです。なお、火がついたシガレットもスプリットファン・プロダクションもカーディニが最初ではありません。しかし、アイデアや演技スタイルにカーディニ独自のものが多数あり、それをコピーされることに抗議していたようです。この頃のマニピュレーションについては、次回発行予定のToy Box 13号がマニピュレーション特集パート2となっていますので、その中で詳しい報告を予定しています。天海の場合、アメリカでAクラスの劇場に出演するには、オリジナル性のあるマジックの重要性を意識されていました。また、技術に対しても誰にも負けない猛訓練したからこそ、カーディニに対抗でき、アメリカのマジック界に認められる存在となります。そして、コピーに厳しいカーディニの存在により、よりいっそうオリジナルの重要性を認識されたと思います。 |
カーディニはニューヨークに到着した後、バーノンの店を訪れています。当時、ラリー・グレイと共同でシルエット・カットの店を営業していました。この時のエピソードをバーノンが面白く語っており、"The Vernon Chronicles Vol.4"の110ページに掲載されています。カードで何か出来るのなら見せてほしいと要望されたので、まず、カードをファンに広げます。カーディニには見たことがなかった広げ方であったので繰り返しを要求しています。さらに、スプリットファンが出来るかを尋ねられ、バーノンは楽々と演じます。もっとうまいスプリットファンを見せようと言って、奥にいるラリー・グレイを呼びます。彼はバーノン以上にあざやかなスプリットファンを演じます。カーディニは驚いて、誰から教わったのかを尋ねています。ニューヨークでは誰でも習得していると嘘をつき、さらに驚かせています。その後、バーノンはカーディニをAクラスの劇場のブッキングを担当しているフランシス・ロックフェラー・キング女史に紹介することになります。彼女とは、バーノンも1924年に契約を結んでいます。バーノンの評判を知り、バーノンの本業はシルエット・カッターでマジックは趣味だと言って断っていたのを説得され、プライベートパーティーへ出演するようになります。カーディニの演技を彼女にも見せて、彼とも契約を結ぶことになります。その時に、彼女はカーディニのしゃべりながらの演技に問題があることを指摘しており、バーノンはすぐにカーディニに伝えています。カーディニとの契約が結ばれると共に、演技もサイレントのパントマイムアクトに変更されます。
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カーディニがバーノンに不信感を持つようになるのは戦後になってからです。バーノンがメジャーな作品を発表するようになることと関係があるようです。それまでもバーノンはパンフレットや小冊子を発行していますが、発行数は少なくマイナーなものでした。1945年からスター・オブ・マジックの発行が開始されます。1954年まで発行が継続されますが、最も作品数が多いのはバーノンです。その中で、1950年に「リング・オン・ザ・ウォンド」が発表されています。6ページの解説ですが5ドルの価格がついていました。この頃、474ページもある「エキスパート・カード・テクニック」が5ドルですので、かなり高かったわけです。このマジックは第4段までありますが、そのほとんどがロイ・ベンソンの方法で、バーノンはその一部分を改案しているだけとカーディニは見なしています。そうであるのに、ロイ・ベンソンの名前がクレジットされていません。ライプチッヒやマリーニが演じていることを記載しているだけです。1938年にバーノンのステージマジックとして「ハーレクイーンアクト」を演じていますが、その中に塩のマジックが含まれていました。それを見たロイ・ベンソンが自分の演技に取り入れるためにバーノンに教わりますが、その代わりに提供したのがベンソンのリングとウォンドのマジックでした。塩のマジックは、フォーセット・ロスとポール・フォックスの影響を受けたバーノンが改良したものでした。なお、塩のマジックで彼らの影響を受けて有名にしたのは、なんといってもフレッド・カップスです。カップスは1950年と55年と61年の3回もFISMでグランプリを獲得していますが、55年の演技のラストに塩のマジックを演じています。
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二人の関係は特に悪くなっていなかったとの報告があります。2007年7月号のGenii誌に、ジェイミー・イアン・スイスが4ページにわたりカーディニの本の書評を書いていますが、その中で触れられていました。1958年のバーノンのリングの本が発行された後、カーディニは何も言っていませんし、その後も二人の関係に問題がなかったようです。バーノンは1941年のSAMの大会で6本リングを演じています。この大会にはカーディニも参加していましたが、6本リングのことで特に問題になった形跡はないようです。友好関係に問題が生じるのはカーディニが死亡する1973年頃のことで、妄想が強くなっており、うらみや不満でいっぱいになっていたようです。バーノンはマジックキャッスルへ迎え入れられ、尊敬される存在となっていたためか、カーディニの不満の矛先が向けられた可能性があります。そのために、カーディニの死後、奥さんのスワンはバーノンに対するうらみを持ち続けた人生となってしまったようです。カーディニ自身は、本来そのようなことを望んでいなかったと思いたいのですが、それだけが残念です。 |
カーディニのマジックが本に解説されていたのは1930年代までで、レクチャーすることは全くありませんでした。基本的には自分のレパートリーのマジックを守る立場を貫いたようです。バーノンの場合、その点が戦後ぐらいから大きく変化し、カーディニとの考え方の違いが大きくなったといえます。バーノンはレクチャーを次々と行うだけでなく、1963年にはマジックキャッスルへ迎え入れられ、その後のマジック界に果たした役割は大きいと言えます。このことは天海についても同様です。帰国以前から日本に大きい影響を与えていますが、帰国後は、さらに、日本のマジック界に果たした功績が大きいからです。カーディニの場合、直接に誰かを指導することはありませんでしたが、彼が演じたマジックの存在が大きく、それだけでマジック界に大きな影響を与えたといえます。日本に対しても、天海を通してカーディニのマジックが伝えられ、日本に多大な影響を与えています。今回の調査により、カーディニの偉大さを今まで以上に知ることができました。 |