「フライングクイーン」は石田天海氏のカードマジックの代表作です。かなり以前に、フレッド・カップスが演じている映像を見たことがあります。あまりのすばらしさに、見終わった後、呆然としてしまいました。完璧な技術と演技力、そして、コミカルであるのに気品を感じさせる演技です。現在では、You Tubeの発達により、検索すれば、簡単にこの映像が見れる時代となりました。是非、この映像は見て下さい。 |
2011年11月に、アスカニオの本の日本語版が、田代茂氏の翻訳により発行されました。350ページもある本ですが、読み始めると夢中になり、あっという間に読み終えてしまいました。この本は、2005年から2008年までに、英語版で4巻発行されたアスカニオの本の1巻目です。この1巻だけは理論編で、マジックの作品解説がありません。そのために、私は2巻目以降の英語版の3冊は購入していましたが、1巻目は持っていませんでした。かなりのボリュームがあるだけでなく、アスカニオの理論は堅苦しいイメージがあったために購入しませんでした。しかし、日本語版が発行されるのであれば、是非、読みたいと楽しみにしていました。 |
クイーン1枚と数のカード4枚(実際は5枚)を使い、テーブルへ置いたはずのクイーンが、手元のカードの1枚と入れ替わっています。これが繰り返され、全てが数のカードとなって終わったり、クイーンが胸ポケットより取り出されるクライマックスもあります。ブラウエの「ホーミングカード」やフレッド・カップスの方法では、クイーン以外のカードが使われており、クライマックスも最後の1枚がその特別なカードに変化させて終わっています。 |
まず、結果から報告しますと、ハッキリとした結論が出せない状況です。最初の発表者がフレデリック・ブラウエですので、彼の名前がクレジットされている場合が多いようです。しかし、ブラウエの方法は、天海の方法が元になっていると記載しているものもあります。まだまだ、不明な点が多いようです。 |
徹底的に調べた中で意外な発見がありました。「ホーミングカード」の方法の解説ではなく、そのマジックや用語を説明している2冊の百科事典が、いずれも同じような記載をしていたことです。1988年発行のT.A.Waters著 "The Encyclopedia of Magic and Magicians" と 1989年発行の Bart Whaley著 "Encyclopedic Dictionary of Magic"(第3版は2007年に電子図書版が発行)です。最初の発表はヒューガードとブラウエの本であることを紹介した後に、石田天海の方法が元になっていると説明されていました。この2冊は代表的なマジック百科事典ですので、大きな影響力があります。また、2005年発行の Paul Hallas著 "Small But Deadly" の本の "Tricks You Can Count On" の中では、天海のホーミングカードと書かれていました。そして、現象が説明されて後、最初に印刷されて現れたのは、ヒューガードとブラウエの本であるとなっていました。そこで、何を根拠に、このような記載となったのかを調べました。その結果、これら以前の文献で同じような記載をしていたのは、マルローの解説だけであることが分かりました。1963年の New Tops誌に解説されたマルローの「ホーミングカード」です。「このタイプのエフェクトの最初の発表はヒューガードとブラウエの本で、クレジットはブラウエになっていますが、オリジナル・エフェクトは天海のものであると思われます。」と説明されていました。しかし、マルローは何を根拠にして、そのように記載したのかは不明です。その理由については、全く触れていませんでした。 |
「ホーミングカード」のタイトルで最初に発表した "Show Stoppers With Cards"
の本を、もう一度調べ直しますと、奇妙な点のあることに気がつきました。「ホーミングカード」の考案者名が(Braue)となっていたことです。また、この中で繰り返し使用される「ファン・フォールスカウント」の技法が単独で解説されていますが、その考案者も(Braue)となっていました。他の作品の場合は、Fred Braue と書かれており、もちろん、( )もありません。また、この本の冒頭で解説されている彼のダブルリフトの場合は、「ザ・ブラウエ・ダブルリフト」のタイトルとなっていました。そして、原案者名がはっきりしている作品のブラウエの改案の場合には、タイトルの下に(Braue Handling)と書かれています。なお、ブラウエ以外の人物による作品は、フルネームで書かれていました。それでは、なぜ、上記の二つの場合だけ(Braue)としたのでしょうか。その違いがよく分かりませんが、考案者をブラウエに確定するのには問題がある印象をうけてしまいます。 |
「ホーミングカード」の元になるのは、1936年に発表されたトミー・タッカーの「シックスカード・リピート」と言われています。現象は全く違いますが、共通点は、グライドを使ったカウントにより、現象が繰り返し起こることです。このカウントも、両者の間では大きな違いがあります。「シックスカード・リピート」では、左手のグライドポジションにあるパケットのトップ側から右手に次々とカードを取り、右手カードの上へ重ねています。もちろん、5枚目を取る時はグライドにより、数枚の束を右手のカードの上に取っています。つまり、左手側の上から取って、右手側の上へ重ねているわけです。 |
このマジックの知名度を高めたのは、やはり、フレッド・カップスです。1964年2月のエド・サリヴァンショーのTVに出演され、このマジックを演じられました。白黒画像の時代ですが、その映像だけでなく、その後、カラー放送の時代にも別の番組で演じられています。その両者の映像をYou Tubeで見ることが出来ます。 |
ここでは天海氏が海外で発表された1953年の "Six Tricks by Tenkai" に解説された「カードフライト」と比べることにします。この方法では、デックを使用せずにパケットの状態で開始し、1枚の特別なカードはクイーンを使っています。大きな違いは、ブラウエもカップスもパーラーマジックとして演じていますが、天海氏はテーブルを使ってクロースアップマジックとしている点です。さらに、彼らはファン・フォールスカウントを7回も使っていますが、天海氏は最初の部分の2回だけです。そして、最初のカウントを終わった段階で、1枚の数のカードとクイーンをテーブルへ出しています。残りは3枚として示すだけですので、繰り返しが減ってスマートになった印象があります。 |
1953年の "Six Tricks by Tenkai" の後、天海氏の改案が文章化されて発表されたのは2冊の本だけです。いずれもフロタマサトシ氏の記録から原稿化されたもので、1958年と1960年頃の天海氏の改案です。1971年の "The Thoughts of Tenkai" と1996年の「天海 I.G.P.Magic シリーズ Vol.1」の2冊の本に3作品が解説されています。英語解説の「カードフライト」では、2回のファン・フォールスカウントが使われていましたが、その後の改案では、それがなくなっています。巧妙なブレークによるトリプルリフトやダブルリフトが中心となります。また、クライマックスでクイーンが消失して終わっている点は変わりませんが、「カードフライト」の方法のように、バックルカウントだけのシンプルさで終わっていません。天海パームによりクイーンをラッピングして完全に消失させたり、ツバを使ってクイーンをくっつけて終わっています。クライマックスで外胸ポケットからクイーンを取り出す方法は、1960年以降と思われますが、天海氏本人の方法として正式に解説されたものがありません。なお、天海ターンオーバーの技法は、上記2冊の本の改案にも継続して取り入れられていました。 |
厚川昌男氏、気賀康夫氏、松浦天海氏、松田道弘氏が改案を発表されています。それぞれの共通点は、グライドを使ったファン・フォールスカウントや天海ターンオーバースプレッドも使われていないことです。出来るだけシンプルで楽に行えるように改案されています。特に驚いたのが気賀康夫氏の方法です。ダブルリフトを含めた専門的な技法をほとんど排除されています。バックルカウントさえ出来れば可能なように組み立てられていました。マジックの初心者でも行えるようになっています。しかし、演技力は十分に発揮する必要があります。また、気賀氏や松浦氏のクライマックスでは、消失したはずのクイーンを外胸ポケットから取り出して終わっています。 |
1948年にブラウエが発表した後、最初の改案者は1952年のビル・サイモンです。1950年頃のエド・マルローとの会話の中で、グライドのカウントを使わない方法が検討されました。サイモンの方法では、4枚の2とスペードのエースで始められ、クライマックスでテーブルの4枚を取り上げると全てがエースで、手元には1枚の2が残ります。マルローも1952年には改案を考案して記録していますが、その発表はかなり後になってからです。また、マルローはその改案以外に、1960年に「カムバックカード」のタイトルで作品を発表し、63年にも別の改案を報告しています。グライドを使うファン・フォールスカウントをそのまま取り入れているのが、1957年発表のブラザー・ジョン・ハーマンです。泥棒のストーリーが加えられ、クライマックスでは銀行としてのサイフより泥棒のカードが取り出されます。その後の改案では、グライドの使用もストーリーもなくなっています。1968年の Bob Ostin と73年の William Zavis の改案では、バックの色が1枚だけ違うカードを使った現象です。 |
大阪の中之島図書館には、天海メモ16巻がコピーされ所蔵されています。借り出しは出来ませんが、館内での閲覧が可能です。昔のB4のコピー用紙で、1巻だけでもかなりの厚みと重さがあります。1枚ずつめくって、全体の記載内容をチェックするだけで、1冊に1時間を要します。今回、職場からの帰宅途中に図書館に立ち寄り、平日の6時から閉館の8時まで2冊ずつ内容をチェックしました。天海氏の手書きで、漢字や仮名づかいが戦前の記載方法のため、読みにくくなっています。それだけでなく、マジシャン名やマジック用語は耳で聞いたカタカナ表記になっています。例えば、タップはトップ、ボーナンはバーノンのことです。数ページにわたる1作品の内容を理解しながら読もうとしますと、それだけでかなりの時間を要します。そのような解説は、16巻全てのチェックを終了した後で時間をかけて読みました。ハッキリとした目的を持って閲覧しないと、数ページをめくっているだけで睡魔が訪れます。天海メモ全体が年代順になっていないだけでなく、何年に記載されたものか分からないメモが多数あります。項目別や年代別になっている部分もありますが、不明な点が多いのが残念です。天海氏が考案されたもののほとんどが、天海オリジナルや天海創作、または、天海改作と書かれています。バーノンやマルローなどのように作者名がハッキリしている場合は、そのことを記載されていますが、何も書かれていないものも多数あります。 |
以上のことから、天海氏の「フライングクイーン」は、ブラウエの「ホーミングカード」の後で創案された可能性が高いと考えられます。それでは、ブラウエが「シックス・カード・リピート」からダイレクトに「ホーミングカード」を考案したのかといえば、そのことにも疑問を残したままです。二つの作品の間に位置する誰かの別の作品があり、それを改案した可能性もあるからです。そこに天海氏の作品が関わっている可能性も捨てきれません。1985年にバズビーにより「ブラウエ・ノートブック」が数冊発行されました。その5冊目には、1936年にブラウエが天海氏のカード・アディションを見て、その改案を報告しています。また、2冊目では、天海氏の友人でもある Charlie Miller や Charlie Kohrs から見せられた天海氏のマジックとして、3作品が報告されています。これらは1937年から39年の間のことです。天海氏は1941年11月にハワイへ出発し、その巡業中に太平洋戦争が始まり、1949年4月までハワイから出ることが出来ませんでした。その間は、ブラウエへ直接影響を与えることは不可能です。その反対に、1948年から49年の初めにかけて、天海メモにはハワイのマニアとの交流がよく行われていたことが記載されており、ブラウエの「ホーミングカード」の情報を得ていた可能性が高いと思っています。この本は、1948年5月には既に発行されていました。 今回の調査の目的の一つとして、特定のカードが繰り返してパケットへ戻ってくる現象は、誰が最初かを調べることでした。これは「ホーミングカード」や「フライングクイーン」の現象以外の作品も含めてのことです。ブラウエの「ホーミングカード」以前に、そのような作品があったのかを調べましたが、特に見つけることが出来ませんでした。現段階ではブラウエの発表が最も古いのですが、まだまだ不明な点が多く、謎が残ったままです。今後も調査を続けてゆくつもりです。 |
「フライングクイーン」は、以前から調査してまとめたかったテーマの作品です。今年に入って、石田天海氏の作品を研究されています小川勝繁氏より、いくつかの「フライングクイーン」を見せて頂きました。そのすばらしさに感動して、直ぐにも調査したかったのですが、前回のテーマに時間が取られて少し遅くなってしまいました。その時に指摘して頂いて参考になったことがあります。天海氏は左利きで、インデックスを見やすくするために、一般に知られている方法と扱いが違うことです。天海メモを読むにあたって、解説やイラストが左利きとして書かれているだけでなく、少し変わった扱い方をされている理由が分かり、混乱することが防げました。ここで改めてお礼申し上げます。 |