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コラム

第32回 ジョーダン・カウントについて (2007.6.1up)

はじめに

Jordan Countは、ジョーダン・カウントでよいのでしょうか。あるいは、ヨルダン・カウントとすべきでしょうか。ちょっと気になるところです。日本のマジック書と英和辞典や人名事典での状況を報告したいと思います。

ところで、このカウントの歴史は古く、1919年にさかのぼります。しかし、ジョーダン・カウントの名称がつけられ、注目をあびるようになるのは1970年になってからです。約50年間、忘れられた存在でした。なぜ、このカウントが注目されるようになったのでしょうか。1959年に発表されたエルムズリー・カウントが、そのことに大きくかかわってきます。

そして、奇妙なことは、1963年末の同時期に、3人が同じようなカウントを発表していることです。これが、ジョーダン・カウントと同じタイプのカウントであったことが興味深いところです。なお、その中の一人はエドワード・マルローであり、1975年には、カール・ファルブスの批判の対象にされます。また、この頃のカウントの仕方が、今日とでは、大きく違っていることも分かりました。いつ頃から、何が変化したのでしょうか。今回、これらのことについていろいろ調べましたので、その結果について報告させて頂きます。

ジョーダン・カウントかヨルダン・カウントかについて

英語ではJordan Countですが、日本のマジック書では、ジョーダン・カウントと書かれている場合と、ヨルダン・カウントになっている場合とがあります。どちらで書く方がよいのか迷ってしまいます。しかし、最近の傾向をみていますと、ジョーダン・カウントと書かれるのをおすすめしたくなります。

2000年までは、ヨルダン・カウントと書かれた日本のマジック書の方が多い傾向にありました。しかし、2000年以降に発行されたマジック書の場合には、ジョーダン・カウントの表記の方が優勢になってきています。私の調査では、ジョーダンと書かれていた著者(訳者)は6名、ヨルダンは2名だけでした。それだけではありません。英和辞典や人名事典での記載の変化がおこっています。1980年代までは、ジョーダンのカタカナ表記がほとんど見られません。英和辞典においては、そのほとんどが「ヨルダン王国」、「the~、ヨルダン川」と書かれている程度です。人名事典でも、Jordanをフランス人の場合はジョルダン、ドイツ人の場合はヨルダンと書かれています。しかし、アメリカ人の場合はカタカナ表記されていません。私の調査では、1980年代で、唯一、ジョーダンと書いていたのは、小学館のランダムハウス英和大辞典ぐらいです。そこには、アメリカの生物学者"David Starr Jordan"を、ジョーダンとカタカナで書かれていました。

1990年代中頃より、英和辞典でも人名事典でも、少しずつ、ジョーダンと書かれ始めます。特に1990年代後半、大きな影響を与えたのが、アメリカのプロ・バスケットボール選手のマイケル・ジョーダンの存在です。一般の印刷物で、彼の名前のカタカナ書きを、多く目にふれるようになります。ただし、辞典(事典)に、彼の名前が登場するのは少し後になります。それでも、既に、1994年に発行された「リーダーズ・プラス」辞典には、マイケル・ジョーダンを含め、ジョーダンとカタカナ表記された6人の名前が紹介されていました。

94年頃までは、上記に紹介しました2冊の英和辞典ぐらいしか、ジョーダンと書かれていなかったのではないかと思っています。ランダムハウス英和大辞典と双璧をなしている研究社新英和大辞典は、2002年の第6版になるまで、ジョーダンのカタカナ表記が登場しません。第6版では、ジョーダンと書いて、アメリカの男子の名前としているだけでなく、デビット・スタール・ジョーダンやマイケル・ジョーダンの名前もあげていました。

現代発行されています中型の英和辞典を調べますと、約50冊の中では、8冊がマイケル・ジョーダンの名前を含めていました。他は全て、「ヨルダン王国」と「the~、ヨルダン川」としているだけです。小型の英和辞典約20冊では、1冊だけしかマイケル・ジョーダンの名前を含めていませんでした。まだまだ少ないように見えますが、1990年代と比べると大きな変化です。辞書において、記載内容が追加されることは、重大な変化です。今後、ジョーダンと書かれる傾向が促進するものと思われます。

2000年までの日本のマジック書での状況

アメリカでジョーダン・カウントの名前がマジック書に登場するのは、1970年以降です。もちろん、日本のマジック書にジョーダン・カウントの名前が登場するのは、それよりもかなり後になります。しかし、ジョーダンのマジックの作品は、アメリカにおいて、1915年から1923年までで200以上発表されています。日本においても、かなり以前から、一部分ではありますが日本語訳され、紹介されていました。1959年には、金沢養訳「数学マジック」(マーティン・ガードナー著)が発行され、ジョーダンのマジックが4作品解説されています。そして、その全ての作品に、ジョーダンと書かれていました。また、1973年の奇術研究68号では、松田秀次郎氏の作品が発表されていますが、その原案者名をジョーダンと書かれていました。そして、1980年には、松田道弘氏の「トランプ・マジック」が発行され、その中の「郵便トリック」の作者名も、ジョーダンと書かれていました。つまり、1980年頃までのマジック書では、ジョーダンのカタカナ表記が一般的であったようです。

それでは、ヨルダン・カウントと最初に書かれた文献は何になるのでしょうか。これについては、はっきり特定出来ていませんが、1983年発行の「カードマジック事典」が最初の可能性もあります。この本は、日本のカードマジック界に大きな影響を与えた本であり、この本により、ヨルダン・カウントの名前も大きく広まったのではないかと思っています。ところで、この本のヨルダン・カウントの説明の中では、「ジョーダン・カウントとも言う」と書かれていました。

1986年には、フィル・ゴールドステインの作品集「とらんぷの活花」が、マジック・マガジン社より発行されています。そこでも、ヨルダン・カウントと書かれていますが、その名前が最初に登場する部分では、ヨルダン・カウント(ジョーダン・カウント)と併記して書かれています。また、1995年発行の、松田道弘氏の「世界のマジシャン・フーズ・フー」では、ジョーダン(ヨルダン)・チャールズとなっており、ジョーダン・カウントの発明者と説明されています。つまり、1980年代〜90年代は、両方を併記して書かれていたケースもいくつかありました。そして、2000年以降の方が、一方しか書かれなくなるだけでなく、あきらかに、ジョーダンの方が優勢になっています。アメリカの男性の名前を、今後も、マジック界だけがヨルダンとするのは、不自然になってゆくのではないでしょうか。

ジョーダン・カウントの歴史

このカウントが、ジョーダンにより初めて解説されたのは1919年です。ジョーダンの作品集「サーティ・カード・ミステリー」の中の「ファントム・エーセス」において使用されています。この時、このカウントは、カードの配列を変えるために使われており、特に名前はつけられていませんでした。4枚のエースが、赤黒交互に並んでいるのを客に示した後、裏向けてジョーダン・カウントします。客には、カウントしながら、カードの配列を逆にしただけのようにしか見えません。そして、客に、裏向きの4枚から、同じ色のカード2枚を取るように依頼しますが、赤黒1枚ずつ取ってしまう結果になります。このマジックが、インパクトの強い作品でなかったためか、これに使用されたカウントも話題にならず、忘れられた存在となります。

それから40年後の1959年になって、エルムズリー・カウントが登場します。エルムズリーによる「フォーカード・トリック」が発表され、その中で「ゴースト・カウント」の名前で発表されます。これも、それほど注目されませんでした。ところが、1960年の「バーノンのモア・イナー・シークレット・オブ・カードマジック」の中で「ツイスティング・エーセス」が発表されるや、この中で使用されたカウント(4−アズ−4カウント)が、その後、エルムズリー・カウントとして、一躍、脚光をあびるようになります。

エルムズリー・カウントの影響を受けて、1963年の年末に、3人が独自にカウントを発表しています。興味深いことは、いずれも、ジョーダン・カウントと同じタイプのカウントであったことです。この当時、まだ、ジョーダン・カウントの名前は使用されていません。ただし、この中の一人のフランシス・ハクストン"Francis Haxton"は、自分の方法はジョーダンにクレジットされると書いていました。

ジョーダン・カウントとして呼ばれ始めるのは、1970年になってからです。1970年7月発行のカール・ファルブスのマジック誌「エピローグ」No.9に、1919年に発行されたジョーダンのカウントが、その後のエルムズリー・カウントの元になるものではないかと書かれています。これは、Fred Lowによるコメントとして報告されています。ところが、次の号でもある1970年11月発行の「エピローグ」No.10では、上記のことは、既に、フランシス・ハクストンが発表していたとして、ハクストンによる「ジョーダンの4−アズ−4カウント」が掲載されます。4枚を使用して解説されますが、その中で、ジョーダン・カウントの名前が使用されています。これ以降、ジョーダン・カウントの名前が、一般的に使われるようになります。

1968年に発表された3人のカウントについて

1968年11月号の「ヒューガード・マジック・マンスリー」に、ノーマン・ヒュートン"Norman Houghton"による「Modified(変更した)・エルムズリー・カウント」が発表されます。いろいろな改案のエルムズリー・カウントが発表されている中で、彼は4枚のカードの中の4枚目(ボトムカード)を見せないで、カウントする方法を考えたとして発表されます。エルムズリー・カウントは3枚目のカードを見せずにカウントする方法であり、ヒュートンの考えは、単に、エルムズリー・カウントの改案といった思いしかなかったようです。

上記と同じマジック誌の12月号には、フランシス・ハクストンの"Face Value"が発表されます。その冒頭に、この作品は、1919年のジョーダンの「サーティ・カード・ミステリー」の「ファントム・エーセス」にクレジットされると書いています。その中で使われたムーブは、「ビドル・ムーブ」や「エルムズリー・カウント」の先駆的な存在であることも書かれていました。デックから客のカードを含めた5枚のカードを取り出してもらい、演者にわたされます。裏向きで5枚をカウントして、客のカード名を聞いた後、5枚を広げると、中央に客のカードだけが表向いているといった現象です。つまり、5枚を使って5枚にカウントする、ジョーダン・カウントの応用が行われているわけです。

1968年の「ニュートップス」12月号には、マルローによる「フレキシブル・カウント」が発表されます。ここでは、エルムズリー・カウントに影響を受けたことは書かれていますが、ジョーダンのカウントについては何も触れられていません。この時のマルローの興味深い発表は、フレキシブル・カウント(ジョーダン・カウント)に続けてエルムズリー・カウントを行うと、特定の1枚のカードを、全く見せることなく、4枚にカウント出来ると報告していたことです。つまり、4枚目(ボトム)にある見せたくないカードが、フレキシブル・カウントにより3枚目へ移動し、この後のエルムズリー・カウントにより3枚目を見せずに、最初の4枚目(ボトム)に戻るわけです。これは、カウントによる位置の変化で見るとよく分かります。トップから1234の順にあったカードを、フレキシブル・カウント(ジョーダン・カウント)しますと、1342となり、本来のボトムカードが、ボトムから2枚目になります。この後、エルムズリー・カウントを行うと、1234となり、元の状態に戻ります。このように、特定のカードを見せないだけでなく、配列まで元の状態に戻る面白さがありますが、そこまでは、マルローも触れていませんでした。現代では、マルローがフレキシブル・カウントを発表したということよりも、上記のような発想にいち早く気づいて発表したことの方が、評価されているような気がしています。

カール・ファルブスとマルローの対立

1975年のカール・ファルブスによるマジック誌「エピローグ」No.23には、マルローへの批判文が掲載されています。マルローが考案したかのように書かれていた多くのものが、実は、彼が最初ではなかったことを、いくつかの事例をあげて報告していました。そして、そのような疑問をいだかせる最初のきっかけとなったものが、マルローの「フレキシブル・カウント」であったと書いています。1919年に発表されたジョーダンによるカウントと同様な考案(リ・インベンションと書かれています)であるのに、フレキシブル・カウントの解説時には、ジョーダンのことに、全く触れられていなかったと批判しています。カール・ファルブスがこの記事を書いた頃より、マルローの記載は信用出来ないとして、マジックや技法の歴史経過を書く時に、マルローの名前を一切書かないようになりました。

1979年のマイナーなマジック誌"Sorcerer's Eyes"Vol.3には、上記の「エピローグ」No.23での、カール・ファルブスの記事に答える内容の報告が、4ページ半にわたり掲載されています。各技法のマルローの言い分が報告されています。その中で、フレキシブル・カウントについても、もちろん触れられており、マルローが発表した当時、ジョーダンのカウントについては、気がついていなかったと書いています。しかし、真実は分かりません。さらに、フレキシブル・カウントは、ジョーダン・カウントのリ・インベンションではないと主張しています。ジョーダン・カウントは、カードの配列を変える考えのものであり、エルムズリー・カウントやフレキシブル・カウントは、1枚のカードを見せずに、カウントするためのものであるとしています。確かに、エルムズリー・カウントのすばらしさは、その点にあるといえます。そして、マルローのフレキシブル・カウントは、エルムズリーの発想を、ジョーダン・カウントのテクニックを使って、別の位置のカード を見せないようにしたものだといえます。つまり、マルローは、ジョーダンと同様のテクニックになっていますが、考え方は別のものだから、リ・インベンションではないと言いたいようです。苦しい言い訳のようにも思えます。

なお、同じ考えのカウントを、同時期に3人が発表しており、誰が最初ともいえませんし、誰が最初であっても、現代では、大きな意味を持つものになっていません。しかし、マルローにとっては、気になって仕方のないことのようでした。1990年発行のWesley James著"Pasteboard Perpensions"の中で、最近受け取ったと書かれた、マルローからの手紙の内容が紹介されていました。フレキシブル・カウントを発表した頃、マルローが発表したマジック誌に比べて、他の二人の方法が掲載されたマジック誌は、実際の発行が、発行月より5ヶ月も遅れており、実質的には、マルローが数か月早く発表していたことになると報告していました。晩年のマルロー(1991年死亡)にとっては、このようなことが気になって仕方のない精神状態であったのかもしれません。

エルムズリー・カウントとジョーダン・カウントの方法の変化

最近の日本や海外のマジック書を見ますと、エルムズリーやジョーダンのカウントの仕方が、最初の頃と大きく変わってきています。カードの持ち方の変化や、ピンチして持つ位置の変化もありますが、最も大きな変化は、カウントする方向が変わったことです。

1970年代までは、いずれも、左手に持っているパケットを、右手に取りながらカウントしています。つまり、左から右への方向です。ところが、最近では、左手に持っているパケットの右サイドを右指のピンチ・グリップで持ち、左手の中へ1枚ずつ取ってカウントしています。つまり、右から左への方向です。結局、パケットの持ちかえの手間が省かれ、すっきりした方法に改良されているわけです。以前の方法であれば、左手から右手に数え取ったパケットを、また、左手へ戻すことになります。もしも、最初に、パケットの左サイドを左指のピンチ・グリップで持って行う場合には、まず、その状態に持ちなおしてからカウントする必要があり、二重に不必要な手間をかけることになります。

1960年に、バーノンの「ツイスティング・エーセス」が発表され、一躍、エルムズリー・カウントが有名になりました。エルムズリー・カウントといえば、両サイドを、それぞれの手でピンチ・グリップして、カウントするものと、長い間、思われていました。このようなグリップで行うように改良したのはバーノンです。本来のエルムズリーやジョーダンのカウントとは、かなりイメージが変わっています。「ツイスティング・エーセス」の場合、左手ディーリング・ポジションにあるパケットを、マジカル・ムーブでもあるツイスト・ムーブをすると、ピンチ・グリップで、すぐにエルムズリー・カウント出来る状態になっています。このマジックにおいては、両サイドのピンチ・グリップが不自然でなく、かえって、スムーズに演じるためのグリップのようにも見えます。しかし、他のパケット・マジックにおいても同様に行うと、わざわざ、ピンチ・グリップに持ちかえることが、手間をかけることになるだけでなく、不自然な操作のように思われてしまいます。

最近の、海外での代表的なカウントの解説は、1996年のロベルト・ジョビー著「カード・カレッジ 2」(日本語版は2001年発行)や、2004年発行のJon Racherbaumerの"Counthesaurus"が代表的です。これらは、いずれも、左手へ数え取る方法で解説されています。これら以前のカウントの解説で代表的なものといえば、1977年発行のJerry Mentzerの「カウント・カット・ムーブ・アンド・サトリティー」の本があげられます。この中でのエルムズリーやジョーダンのカウントは、いずれも、右手へ数え取っていました。

それでは、いつ頃より、左手に数え取るように変わったのでしょうか。この方法の始まりは、1970年代中頃からのようです。このことに関しては、海外の文献よりも、日本のマジック書の方に参考となる記載を見つけましたので報告します。

1977年の「奇術界報」第433号に、「フェドコのフィネス」のタイトルで、エルムズリー・カウントの別法が高木重朗氏により解説されています。これは、右手へ数え取る方法ですが、この解説の最後に、「ディングルやガルシアなどニューヨーク付近の奇術家は、同じような技法を左右逆にして行っています」と報告されていました。さらに、1978年の「こいわきじゅつ」No.14の、小野坂東氏によるエルムズリー・カウントの記事の中で、高木重朗氏が、2〜3年ほど前から使用されている方法が報告されていました。左手で斜め前方に抜き出すように取ってカウントされていたそうです。なお、これと同様の方法が、ニューヨークのフランク・ガルシアも行っているそうです。そして、日本を訪れたマーチン・ルイスやブルース・サーボンも、個性のある方法で、左手へ数え取っていたことも紹介されていました。

チャールズ・ジョーダンへの疑惑について

最初の予定では、ジョーダンの疑惑についても報告するつもりでした。しかし、それだけでも、かなり長くなることと、もう少し調査したいこともありましたので、今回は割愛することにしました。ただし、どのような疑惑かだけは、少し触れておきたいと思います。ジョーダンが1915年から1923年までの間に、200以上のマジックを発表していますが、それらの本当の考案者は、彼ではないという疑惑です。もしも、これが真実であれば、ジョーダン・カウントの名前も変更する必要が出てきます。結局、真実は謎のままであり、単なる疑惑だけのままで終わりそうで、何も変わることはないと思われます。

彼への疑惑が最初に報告された時、「ジョーダンはマジックを考案しておらず、編集と通信販売しただけであり、本当の考案者はアーサー・フィンリーである」と書かれていました。また、別の疑惑では、「ネルソン・ダウンズが、本当の考案者ではなかったのか」といった報告もあります。もちろん、ジョーダン自身が考案したといった反論も出されています。

なお、アーサー・フィンリーは、バーノンに多大な影響を与えた人物で、当時、カードマジックの最先端の考え方を持っていたと思われるのに、ほとんど作品が残っていない謎の多い人物でもあります。このような疑惑が出された経緯や、疑惑を発表したそれぞれの報告者の理由は、もう少しまとめてから報告したいと思います。また、ジョーダンの全てのマジックを調べなおして、全体の傾向を知ることも面白いのではないかと思っています。このことが、ジョーダンの疑惑の真相を判断する上で、良い材料になるのではないかとも考えています。謎だらけのジョーダンやアーサー・フィンリーを調べることは、よりマジックが面白くなってきそうです。


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