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コラム

第30回 ティルトとコンビンシング・コントロールの考案者 (2007.2.16up)

はじめに

前回のコラムで、ティルトの考案者はマルローではないと報告しました。それだけでなく、コンビンシング・コントロールもマルローではないと書きました。いずれも長い間、"Marlo's Tilt"や"Marlo's Convincing Control"と記載されてきたものです。技法名と考案者名が一心同体のように扱われてきており、広く世界中に知れわたっていたことでした。今日では、ティルトはダイ・バーノンが考案したものとされ、デプス・イリュージョンの名前もよく使われています。また、コンビンシング・コントロールはラリー・ジェニングスの考案であることが分かってきました。

これらの詳しい報告をしますと長くなりますので、前回のコラムでは残念ながら割愛しました。しかし、今日において、どちらも使用頻度の高い技法となっているだけに、考案者名の変化の経過は気になるところです。全てのことが明らかになったとはいえませんが、現時点で分かっていることを報告したいと思います。

特に重点をおいたことは、いつ頃より考案者名が変わってきたのか。また、何をきっかけに変わったのかといったことです。また、ティルトが発表される以前の歴史や、ティルトを効果的に見せるための追加アイデアについても報告したいと思います。

ティルトについて

ティルトは、デック中央に入れたカードを、トップやトップから数枚目より取り出す現象が可能な技法です。すり替えではなく、本当に中央に入れたカードで行えるのがすごいところです。なお、ここでは、ティルトの状態や方法については触れないことにします。

「アンビシャスカード」や「コレクター」にティルトがよく使用されていますが、残念ながら、マニア相手には通用しないものとなってしまいました。広く知れわたってしまったことと、この操作を行うだけで、何をしようとしているのかが推察出来てしまうからです。しかし、マジックは、本来、一般客相手に演じるのが第一の目的です。ティルトのメカニズムを知らない人にとっては、これほど強烈な技法もありません。私も初めて見せられた時には、起こったことが信じられませんでした。

これを覚えて間のない頃、ティルトを繰り返し使うアンビシャスカードを演じたことがありました。何回か繰り返しますと、相手の目が、今にもカードを奪い取りかねない殺気をおびた恐ろしい目になっていたのを思い出します。それほどに、ティルトは強烈です。マニア相手には、対抗心むき出しのマジックを演じることがありますが、一般客相手には、楽しく演じたいものです。ティルトの使い過ぎには、注意すべきだと反省しました。

ティルトの歴史

今日では、19世紀のホフジンサー(1806年〜1875年)が、この概念を考えた最初の人物とされています。しかし、それは、トップカードを少し横へ押し出し、その下へ入れてしまうだけのものです。特定の条件がそろわないと成立するものではありません。また、これをティルトの最初とすべきかどうかも考え方の分かれるところです。

メカニズムに注目した場合、1946年のエドワード・ビクター著"Further Magic of Hands"に発表された方法を、原案と言ってもよいのではないかと思っています。ただし、現在使用されている方法とは、デックの示し方やカードの差し込み方が違っています。

そして、次に、ダイ・バーノンにより、今日使用されている方法が考え出されます。これはデプス・イリュージョンと呼ばれるようになりますが、その方法や応用例は、文章として発表されませんでした。そのため、バーノンがいつ頃より使っていたのかが論議の的になりました。1922年頃、フーディーニに演じて話題となった「フール・フーディーニ」のマジックに使われていたと主張する人も多かったからです。しかし、これは2枚目に入れたカードが、トップに上がる現象であり、ティルトの使用は否定されています。ティルトの実際の使用は、もっと後で、1950年代終わり頃に、数名の有名マジシャンの目撃情報があります。

1962年に、エドワード・マルローがこの技法に「ティルト」の名前をつけて、小冊子で発行しました。そこには、ティルトの方法の詳細と応用も含めて発表されていますが、バーノンの名前もエドワード・ビクターの名前も、原案者としてクレジットされていませんでした。ただし、バーノンも数ヶ月前に、同様な方法を考案していることが分かったと書いています。しかし、マルローは独自に考えついたものとして報告しています。その後、"Marlo's Tilt"として、長年にわたり、世界中のマジシャンに浸透してしまうことになります。

ティルトの考案者名の変化

1980年代前半までは、ティルトといえばマルローの名前がクレジットされていました。結局、20年以上も、この状態が続いていたことになるわけです。ところが、1980年代後半は、マルローからバーノンへクレジットが移行する過渡期といえます。また、二人の名前が混在していた時代でもあります。

リチャード・カウフマンが書かれた本では、その点の変化がはっきりしていますので、古い順に報告したいと思います。1979年の"Card Magic"と1981年の"Card Works"の本においては、マルローの名前だけが書かれています。ところが、1988年の沢浩氏の本"Sawa's Library of Magic"においては、「バーノンのデプス・イリュージョン、また、ティルトとして知られている」と書かれるように変化しています。1990年の高木重朗氏の本も同様です。1992年の"Five Time Five"や、1993年の"Secrets Draun from Underground"においては、「バーノンのデプス・イリュージョン」と書かれているだけとなりました。ティルトの名前すら、なくなっています。

スティーブン・ミンチの記載は、カウフマンに比べて慎重できめ細やかです。1977年のマーティン・ナッシュの作品集"Any Second Now"を書いた時は、"Marlo's Tilt"としていました。ところが、1987年のダローのアンビシャスカードの本"Ambitious Card Omnibus"発行時は、"the Vernon-Marlo Tilt maneuver"としています。この本の原稿は、1985年に書かれたもののようです。1988年の"The Vernon Chronicles Vol.2"では、バーノンを考案者としています。しかし、「ティルト・ブレーク」はマルローにより名付けられたと説明されています。1990年のブルース・サーボンの本「ウルトラ・サーボン」においては、バーノンにより考案され、マルローによりマジック界に広められたことが報告されています。そして、デプス・イリュージョンとティルトの両方が書かれており、前者はバーノン、後者はマルローの技法名として紹介されています。1996年のトミー・ワンダーの本"The Book of Wunder Vol.1"では、Dai Vernon's "depth illusion" or "tilt"としており、後者はマルローにより名付けられたタイトルと注釈しています。つまり、スティーブン・ミンチの場合は、バーノンを考案者として明記するようになっても、何らかの説明を加えながら、マルローの名前を含めていました。ティルトに対するマルローの貢献を考えてのことではないかと思えてしまいます。

ハリー・ロレインも、多くの人物のティルト使用作品を解説しています。1978年にKen Krenzelの本を書いた時は、"Marlo's Tilt"としていました。しかし、それ以降は、単に"Tilt"だけしか書かないように変わりました。人物名も何もありません。1982年発行の多数の人物の作品集「ベスト・オブ・フレンズ」や、1978年から1997年までの20年間発行されたクロースアップ・マジック誌「アポカリプス」においても、多数のティルトを使った作品が登場しますが、いずれも"Tilt"のみの記載です。

もっとも興味深いのは、マルローを敬愛していたマジシャンが発行された本の場合です。その中でも一番の書き手であり、もっとも重要な位置をしめていたのがJon Racherbaumerです。1991年にマルローが死亡して、どのように記載の仕方が変わったかです。1992年には"Edward Marlo's Full Tilt"を、100部限定で発行しています。そして、その後、ハードカバーとなり、大々的に発行されるようになりました。この本の冒頭には、ティルトはバーノンが先駆者であることが述べられています。詳細は後述します。また、1998年の"Magic"誌9月号の彼のコーナーにおいて「ボブ・ホワイトのワンハンド・ティルト」を解説していますが、この時には、「バーノンのデプス・イリュージョン」としか書かれていませんでした。アッカーマンもマルローとの関わりが深いのですが、1994年に"Las Vegas Kardma"を発行しています。そこには、"Vernon's Tilt"と書かれているだけでした。

ティルトの考案者名変更に大きな影響を与えた最初の文献

1977年に、カール・ファルブスは"The Pallbearers Review Close-up Folio 10"を発行しています。それは、4回目のダイ・バーノン特集号であり、ティルトの概念の歴史経過を報告しています。ティルトの考案者がマルローではないことを、はっきり書いた最初の文献といえます。そこには、バーノンに至るまでの四つの方法が紹介されています。ただし、エドワード・ビクターの方法以外の三つは、今日では意味を持たないものと言ってもよいでしょう。しかし、順番に紹介し、私の意見も加えさせて頂きました。

この本では、ティルトの概念の最初の文献として、1914年のフランスのGaultierによる"Magic Without Apparatus"(このタイトル名は、1945年に英訳された時のものです)を取り上げています。その中で、デック中央へカードを入れたように見せて、トップへおいてしまう方法が解説されています。この本には、パスを使用せずに、客のカードをデックのトップに持ってくる方法が多数報告されていますが、その中の一つのCazeneuveの方法として紹介されたものです。一度、デック中央へ差し込みつつあったカードを、抜き出して、もう一度よく表を確認させた後、再度差し込む時に、トップへおいています。ティルトの概念から、かなり外れていますし、今日では、ホフジンサーの方法の方が、時代的には先であることが知られていますので、この方法は特に重要性をもたなくなりました。

次は1932年のRalph Hallの方法です。トップカードを少し横へ押し出して、その下へ入れる方法です。つまり、ホフジンサーの方法と同じです。ホフジンサーのカード・マジックの本の英訳版は、1931年に発行されていますので、その中の作品に使用された方法を取り入れたのだと思われます。このホフジンサーの本が再版されたのが1973年で、ファルブスもその再版には関わっていたにもかかわらず、ホフジンサーとティルトとの関係に触れられていなかったのは意外です。まだまだ、この本の研究が不十分であったのだと考えられます。

3番目の方法は、前方からカードを差し入れる方法で、作者不明としています。外エンドを床の方へ傾けて行っています。実は、これはKen Krenzelの方法とは知らずに書いてしまったようです。1978年に、ハリー・ロレインにより"The Card Classics of Ken Krenzel"が書かれましたが、その中で、Krenzelの方法として解説されています。かなり以前から使っていたようですが、マルローがティルトを発表する以前ということはありません。なお、マルローの小冊子「ティルト」の8ページには、すでに、前方からの方法についても触れられていました。客が演者のすぐ横にいる場合の方法として書かれています。カール・ファルブスはそのことには一切触れず、前方からの方法も、マルローが最初ではないと否定したかった可能性が考えられます。

4番目の方法は、先にも報告しました1946年のエドワード・ビクターの方法です。これは、今日のティルト成立の上で、重要な役割を果たした方法といえます。私としては、原案者名をバーノンとビクターとの連名にするのが、よりふさわしいと思っています。しかし、現在の方法にしたのはバーノンですから、バーノンの名前だけでも異論はありません。

Jon Racherbaumerは、カール・ファルブスの上記の記事に対して、すぐに反論しています。"Sticks & Stones No.10"に"How Deep Is This Illusion"のタイトルで、4ページにわたり書いています。ファルブスの書いていた個々の方法に対して、厳しい意見となっています。しかし、マルローがティルトと名付けたこの方法が、バーノンの考案であったことに対しては反論していません。

ティルトの考案者名変更に大きな影響を与えた文献 パート2

1977年のファルブスの発表があっても、実際に本の上で、バーノンの名前が中心となり始めるのは、それから10年以上もたってからです。そして、ティルトを歴史的に研究する上で重要な文献が登場します。1992年に発行されたJon Racherbaumerの"Full Tilt"の本です。1991年にマルローが死亡して、ティルトにおけるマルローを擁護すると共に、ティルトについて発表されたいくつかの文献を見直してまとめた本です。

この本の17ページには、マルローはティルトの考案者としてバーノンを認めていたような記載がされています。21ページには、マルローが主張していたのは、ティルトそのもののアイデアではなく、本にも書いていたティルトへ加えた様々なアイデアや応用についてであったとしています。そして、マルローがティルトの第一の普及者であったことを強調していました。カール・ファルブスがしようとしたことは、マルローがティルトのクレジットからはずされることを望み、文章上で攻撃しただけでなく、歴史上で、マルローがティルトに対して果たした役割も否定しようとしたことであったと批判しています。

この本の"Introduction"の2ページ目において、Jon Racherbaumerは、Ken KrenzelとHoward Schwarzmanにティルトを初めて見た時のことを尋ねています。バーノンが、デック中央に入れたカードを、直ちにトップから取り出すマジックとして演じていたそうです。説明はありません。これは1958年から59年のニューヨークにおいてであり、他にアルバート・ゴッシュマンやクリフ・グリーン等にも見せて、びっくりさせていたそうです。Ken Krenzelは、その後、バーノンに「何に影響を受けて考案されたのか」を尋ねています。その返答として、エドワード・ビクターの本の写真からである ことを告げられたそうです。ビクターの本では、ティルトの元となる方法が、"The Awkward Ace"の中で1枚のイラストも使って解説されています。そして、このイラストと同様の写真が、この本の最初に大きく掲載されていました。

ホフジンサーとティルトの原点

上記の"Full Tilt"の本が発行された1992年頃、まだ、ホフジンサーとティルトの関係については何も触れられていませんでした。その後、「ホフジンサー・カード・カンジャリング」の本が見直される中で、関連性が指摘されるようになったものです。前にも書きましたが、この本の再版は1973年ですが、広く普及するようになるのは、Dover社から1986年に発行されるようになってからです。その本の89ページには、"Remember And Forget"のマジックが解説されています。そして、その中で、ティルトの原点となったといわれる、単に2枚目へ入れるだけの操作が、2回使用されているのです。なお、この操作が、どの程度通用するものなのか分かりません。演者と客との位置関係が、成立しやすい条件にあったのでしょうか。

2000年には、ロベルト・ジョビーの「カード・カレッジ4」の英語版が発行されます。これは、1994年のドイツ語版を英訳したものであり、スティーブン・ミンチもかかわっています。日本語版は、2007年1月段階では、第3巻までは日本語訳されていますが、第4巻はまだ発行されていません。この第4巻には、「ティルト」の章があり、その冒頭には「一般的にはバーノンにクレジットされる」とあります。そして、本の巻末の補足説明では、この発想の最初は、19世紀のホフジンサーによると書かれています。さらに、今日一般的となった方法を最も早く解説したのは、1962年のマルローの「ティルト」の小冊子であることも報告されています。

ティルトへの追加アイデア

ティルトの操作だけで十分ですが、ティルトをさらに補強するためのアイデアがいくつか発表されています。実践的で代表的なものを紹介させて頂きます。

1.ワンハンド・ティルト・ゲット・レディー

本来は両手を使ってティルトの準備をしますが、それをデックを持った左手だけで行うものです。マルローをはじめ数名のマジシャンが、独自の方法で行っています。文献上で、最初に詳細が解説されたのは、1976年の「カバラ3」においてです。Jon Racherbaumerが解説しています。

2.Howard Schwarzmanのアイデア

デック中央へ内エンドよりカードを差し込むとき、1枚または数枚のカードに当てて、前方へ数ミリ、カードを押し出す操作をします。本当に中央へカードを入れようとしていることが強調出来ます。1962年のマルローの「ティルト」の13ページには、Charles Aste Jrのアイデアとして掲載されています。それをカール・ファルブスが、Schwarzmanのアイデアとして紹介したものです。ファルブスによると、1961年5月27日に、Schwarzmanがバーノンからデプス・イリュージョンを見せられたとしており、その時に、このアイデアを提案したと報告しています。

3.コンビンシング・ティルト

1980年の"The Last Hierophant"に、ダローの方法として発表されています。左手のデックで、ワンハンド・カットするかのように左サイドの中央部を開いて、そこへ右手のカードを入れる操作でティルトを行う方法です。

4.ティルトを行って、インジョグ状態に保ったカードの表を見せる方法

デックを持った左手首をかえして、デックを垂直状態にして、下方に突き出しているカードの表を客に見せるものです。すばやく何気なく行います。1997年にハリー・ロレインがDoug Edwardsの本を発行した時に、Ken Krenzelのアイデアだと思うといった疑問形で書かれていました。

5.ティルトの後、インジョグ状態にあるカードを見せる方法

インジョグ状態にあるカードを見せることにより、ティルトを行った形跡をなくし、中央へ入れつつあることを納得させることが出来ます。2003年9月号の"Magic"誌において、Jushua Jayが"Bebel on Tilt"を解説されていますが、その中で、このアイデアがアスカニオの方法として報告されていました。ただし、アスカニオの方法は、2003年段階でも、まだ文献上には発表されていないそうです。なお、Bebelはその発展形として、面白い見せ方を二つ発表していました。

ところで、1970年に日本においても、加藤英夫氏により「ティルトの研究」が発行されています。その中には、沢浩氏によるアスカニオの発想と同様なアイデアが、すでに発表されていました。アスカニオの方法は、具体的にはどのようなハンドリングで行われているのか分かりませんが、沢浩氏は錯覚を起こさせる巧妙な方法で行われていました。こちらの方が、アスカニオよりも、はるかに先だといえますが、海外に発表されていなかったのが残念です。

コンビンシング・コントロールについて

1970年のJon Racherbaumer著によるマジック誌"Hierophant 3"に、マルローの方法として、「コンビンシング・コントロール」が発表されています。これを考案して記録した年月を、1966年6月としています。この方法を考案する元になったものとして、マルロー本人以外の誰の名前も書かれていません。マルローが1966年に"The New Tops"に発表した"The Prayer Cull"を元にしていることが報告されています。

客に選ばせたカードの表を示した後、デック中央でアウトジョグしますが、この段階ですり替えが行われ、客のカードはボトムへコントロールされます。アウトジョグしているカードが、客のカードとして強調されるので、この名前が付けられたものと思われます。つまり、この方法の特徴は、客のカードがアウトジョグされることです。

このアイデアは、ラリー・ジェニングスが1960年代初めには考え出されていた可能性が高いようですが、何年かは特定出来ていません。このアウトジョグするアイデアを聞いたマルローは、彼のハンドリングで、コンビンシング・コントロールの名前を付けて、いち早く発表してしまいました。その後、アッカーマン、フランク・サイモン、ロウゼントール、ダロー等により、様々の方法が開発され発表されることになります。

ところで、このコンビンシング・コントロールが最初に発表されたマジック誌"Hierophant 3"を調べますと、三つの方法が解説されていたことが分かりました。最初の二つは、客のカードが、上半分のボトムの左サイドへ突き出た状態を強調する方法であり、3番目になって、やっと、アウトジョグの方法となります。最初の二つの方法であれば、マルローのアイデアとして主張出来るのですが、皮肉にも、3番目のジェニングスのアイデアを取り入れたアウトジョグの方法が、もっとも脚光をあびてしまいます。コンビンシング・コントロールといえばアウトジョグするものとなってしまったことには、マルローも複雑な思いではなかったのかと考えてしまいました。

コンビンシング・コントロールの考案者名変更のきっかけとなる文献

ラリー・ジェニングスの考案であることが、はっきり書かれたのは、1986年発行のマイク・マックスウェル著「ザ・クラシック・マジック・オブ・ラリー・ジェニングス」においてです。「プロブレム・ウイズ・ホフジンサー」のマジックに、彼の方法が解説されており、マルローの方法との関わりについてコメントされています。マルローのコンビンシング・コントロールは、ジェニングスの方法が初めて印刷化されたものであると書かれています。「エキスパート・カード・ミステリー」の本の作成にあたり、アルトン・シャープがジェニングスに会った時に、アウトジョグするこの方法を見せられ、その後、マルローへ伝えられたものとしています。なお、シャープの本に、この方法は解説されませんでした。マックスウェルの本によると、ジェニングスの方法は"Immediate Bottom Placement"と名付けられ、原案者はホフジンサーとしており、アウトジョグすることが加えられたものとして報告されています。

この記載に対して、もちろん、マルローが反論しています。1988年の「マルロー・マガジン6」の「まえがき」には、確かにアルトン・シャープに会った時に、ジェニングスの方法のことが話題となったが、話を聞いただけであり、その方法に関しては、かなり内容が違っていると主張しています。20年以上前のことなので、記憶がうすらいでいることを期待したのであろうが、二人とも、当時のことははっきり覚えていると、挑戦的な書き方をしています。マルローがアルトン・シャープから聞いた話では、ジェニングスは表向けて広げており、中央の1枚を客に選ばせ、デックをそろえて裏向けると、トップが客のカードになるといった現象であったそうです。広げるのは表向きで、デックを分割することもなかったと報告しています。それが、ジェニングスの本では、裏向きで広げ、分割もしており、しかも、アウトジョグが加えられていると批判しています。私が思ったのは、70才代半ばになったマルローが、20年以上も前のことを、よく覚えていたものだと驚いています。

1997年のデビッド・ソロモンの本"Solomon's Mind"の228ページには、この頃のマルローのことが書かれています。マルローが死亡(1991年)する数年前から、健康状態が悪くなり、嫉妬深さも強まり、歴史的なことを思い出したり、クレジットすることも難しくなってきていたとしています。特にクレジットの問題で、絶えず不平をこぼすようになっていたそうです。

1994年に、マルローと関わりの深いアッカーマンが"Las Vegas Kardma"を発行していますが、その中で、この技法の応用「ムービー・コントロール」を発表しています。そこには、この方法の原案者をめぐって大きな論争が起こっており、両方の立場からの強い主張を聞いていると書いています。しかし、いずれを支持するかは書かれていませんでした。

1994年には、Racherbaumerの"Facsimile 1"(1983年発行)が、リチャード・カウフマンにより再発行されており、カウフマンの主張が、冒頭にある「発行者ノート」の中で触れられています。 この本文には、Racherbaumerによる「オン・ザ・スプレッド・カル」が9ページにもわたり掲載されており、カルとコントロールの違いや、マルローのコンビンシング・コントロールの独自性を主張しています。多くの研究家から、ホフジンサーのスプレッド・カルの単なる改案との主張に対する反論といえます。カウフマンはRacherbaumerの意見に反対しており、ホフジンサーの改案であるだけでなく、ジェニングスのアウトジョグのアイデアをマルローのハンドリングで、いち早く発表してしまったものにすぎないと主張しています。

さらに、ホフジンサーのスプレッド・カルの発展形として、エドワード・ビクターの方法を紹介しています。客のカードを別のカードとスイッチして、ボトムへコントロールしてしまう方法です。"Willane's Methods for Miracles"シリーズ(このシリーズの合本が1985年に発行)のパート8が、1952年に発行されていますが、その中の"Card in the Aces"のマジックにおいて解説されています。そして、このビクターの方法にアウトジョグを加えたのが、ジェニングスとしています。

1996年には、Racherbaumerの"Facsimile 4"が発行され、コンビンシング・コントロールが発表された頃のことと、その後の経過について報告しています。Racherbaumerは考え方を修正して、コンビンシング・コントロールはホフジンサーの方法が元になっていると書いているだけでなく、マルローはジェニングスの方法を知っていたと報告しています。そして、1966年にマルローは、コンビンシング・コントロールを作成し、1967年になって、それをRacherbaumerは見せられたと報告しています。その後、マルローはアッカーマンにも見せますが、1969年にアッカーマンは、自分の改案を本に発表することをきめます。それを聞いたマルローは、あわてて、Racherbaumerにマルローの方法を発表するよう指示されたそうです。1970年にコンビンシング・コントロールが発表され、アッカーマンも同年に本を発行しています。そこには、マルローの改案として発表されています。Racherbaumerの報告の最後には、もし、ホフジンサーが生きていたなら、アウトジョグすることに対して、苦言を述べていた可能性にも触れていました。

1997年には、カウフマンにより、ジェニングスの1967年頃の作品集「ジェニングス 67」が発行されており、"Immediate Bottom Placement"の解説の冒頭に、2ページをかけて、歴史的な内容を、より詳しく報告しています。ジェニングスがアルトン・シャープに見せた時には、ジョン・トンプソンも出席しており、その事実が確証されたことも加えられています。そして、ジェニングスは、通常では、アウトジョグする方法を、あまり使っていないことも報告されています。ホフジンサー・カルがうまく行われれば、それが最も自然であり、アウトジョグにより強調する必要性は、特別な場合以外は、感じていなかったからではないでしょうか。

1998年には、Racherbaumerが"Hierophant"の合本を発行しています。これはRacherbaumerによるマジック誌ですが、冒頭でも触れましたように、コンビンシング・コントロールが初めて解説された文献でもあります。合本では、作品や技法を項目別に並び替えただけでなく、必要な部分には注釈が加えられています。コンビンシング・コントロールにおいては、注釈に3ページもかけています。このようなことは、この合本の中でも特別なことです。そこには、上記の"Facsimile 4"で報告された内容と同様なことが述べられていました。しかし、その中には、新たに加えられた重要な情報があります。Racherbaumerによると、ジェニングスの方法をマルローは、セントルイスのマジック大会で見ていたと書かれていたことです。ただし、私には疑問点があります。マルローが見ていたとあるのは、何により分かったのかといったことです。また、何年の大会であったのでしょうか。しかし、いずれにしても、マルローの後継者でもあるRacherbaumerの修正報告により、論争が終結したといってもよいのではないでしょうか。

おわりに

今回、ティルトの報告が中心となり、コンビンシング・コントロールに関しては、要点部分だけの報告となりました。カルからコンビンシング・コントロール、そして、その後の変化について、機会があれば報告したいと思います。

ところで、今回取り上げました二つの技法には、面白い点があることに気がつきました。ティルトは、内エンドのカードがトップ方向へ移動するのに対して、コンビンシング・コントロールは、外エンドのカードがボトム方向へコントロールされることです。しかし、そのことよりも、二つの技法共に、原点が19世紀のホフジンサーであり、それに改良を加えたのが、エドワード・ビクターであったことに驚きを感じています。さらに、興味深い共通点として、バーノンもジェニングスも、マルローにより、先に発表されてしまいますが、文献上で、マルローではないことが正式に表明されるのは、15〜16年たってからであったことです。

なお、マルローは、いつ頃から、クレジットしない傾向が強くなったのでしょうか。1978年に発行されたマイナーなマジック誌"The Sorcerer's Eyes 25-28"に、マルローのインタビュー記事が5ページにわたり掲載されています。そこには、バーノン批判を含め、クレジットしなくなった理由になりそうなことまで語っていました。その内容については、調査が必要なことも多く、ここでは触れません。しかし、マルローの一方的な言い分にすぎず、クレジットしなくてもよい理由にはならないことだけは明らかだと言ってもよさそうです。


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