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コラム

第105回 メリケンハットの歴史の謎(2022.7.05up)

はじめに

柔らかい帽子の内側をあらためたのに次々と品物が取り出されます。19世紀後半の海外の本には、シルクハットから各種の品物を取り出す奇術が多数発表されています。しかし、日本のような柔らかい帽子を使って内側を外へ返す解説がありません。また、20世紀に入ってからの文献でも見たことがありません。2022年3月20日にマジックネットワーク7(MN7)主催で「第2回奇術史研究会」が開催されました。その中で河合勝氏がメリケンハットの明治時代の状況を報告され、大変興味を持ちました。その後の調査で分かった興味深いことが、1901年から1905年にかけての天一一座の海外公演でのことです。1902年に振袖の女性が左手に柔らかそうな帽子を持ち、右手にはバネまりを持っている写真がありました。そして、ライプチッヒが観た1904年の天一一座の女性の演技で、帽子の内側を外へひっくり返してあらため、品物を取り出していたことを報告されていました。それらのことを含めて、20世紀初めまでの海外と日本の状況、そして、戦前から昭和30年代にかけての日本の状況を中心に報告します。しかし、多くの謎が残ったままとなりました。

19世紀中頃から20世紀初めまでの海外の状況

1857年発行の本には、客から借りたシルクハットから硬くて大きいボールの取り出しが解説されています。米国のDick & Fitzgeraldが発行した”Magician’s Own Book”の本で、”The Cannon Balls”のタイトルがついています。キャノンボールはシルクハットに入る大きさの木製のボールで、一ヶ所に指が入る穴が開けられています。客から数個のシルクハットを借りてテーブルの上へ伏せて置き、それらを取り上げる時に、テーブル手前の棚(セルバント)に置かれたボールの穴に中指を差し込んで帽子の中へ入れています。その後の文献では「帽子トリック」の章が設けられ、1つのシルクハットだけで行われ、さまざまな品物が取り出されるようになります。1876年の「モダンマジック」の本では、キャノンボール以外に数個のバネまり、多数の金属製ゴブレット、数個の人形(バネ入り)、小さいハンドバッグや鳥籠などです。1885年のSachsの「スライト・オブ・ハンド」の本のイラストでは山高帽になっていますが、これもシルクハットと同様な帽子と言えます。上記以外の取り出し品として、キャンディーと花、7つの中国製ランタン(中には火が付いたロウソク)です。1890年の「モアマジック」ではリボンテープの取り出しが加わります。そして、重要なことが1880年代には、Joseph Hartzがシルクハットからステージいっぱいに取り出す演技が有名になり、その後”Devil of a Hat”のタイトルが付けられています。

Joseph HartzのDevil of a Hatについて

1890年のホフマン著”More Magic”にはJoseph Hartzの当時の演技内容だけが紹介されています。そして、Hartzについてと”Devil of a Hat”の演技や方法に関しては、1911年のホフマン著”Magical Titbits”や1911年の”Later Magic 改訂版”に掲載されます。”Devil of a Hat”の解説だけで24ページも使っています。1883年にはロンドンで演じられていたそうです。客からシルクハットを借りて、最初に多数のシルクを出現させ、次々と10個の金属製ゴブレットを取り出しています。さらに7つの葉巻の箱を出現させ、再度、10個のゴブレットを取り出します。生きているカナリヤが入った鳥籠を出現させ、帽子からいっぱいのカードが出現し特定範囲の敷物の上にまき散らします。さらに、幅のある長いリボンが取り出されます。火のついたロウソクが入ったランタンが7つ取り出され、大きな人形を出して終わっています。これらの取り出した品はテーブルに並べたり、シルクやリボンや鳥籠はテーブルの手前に引っ掛けて示しています。約22分の演技です。 これだけで十分ですが、その後、新しい内容が加わります。シルクハットを置くための小さい円形のテーブルに帽子を置いて離れると、帽子からドクロ(頭蓋骨)が現れ、徐々に上昇します。それをとってテーブルへ置いています。ゴブレットは赤や緑のセルロイド製が多数使われるようになります。マジックにセルロイドが使われるのは最初かもしれないとのことです。そして、10本のシャンペンボトルの取り出しも加わります。最後には2つの透明な球形の金魚鉢が取り出され、中には生きている金魚が泳いでいます。

Hartzの演技には捨てバッグが使われていません。前方に小さい円形のテーブルがあり、後方には横長のテーブルが3つもあります。その中央のテーブルには少し幅があり、布カバーが掛けられ、その前方や側面には布が10~15センチほど垂れ下がった状態になっています。それには縦のひだがあり、数カ所には縦のスリットがある状態にしています。3つのテーブルともに下側には細い脚があるだけで、他には何もない開放された空間になっています。帽子から取り出した品を中央のテーブル上に置く時に、大きな品をスリット部分を通って帽子へ入れています。テーブルのすぐ下の前面や側面には大きな品を隠しています。また、上着の胸や袖、スボンの後方にも別の品がセットされています。最初は体に隠したものから取り出していました。 Hartzは1836年生まれで、17才の時にはステージに出演し、その後はプロとして活躍します。父が時計職人の関係で物作りの才能があり、クリスタルを使ったマジックや変わった現象のマジックを製作し実演しています。1866年には兄弟でアメリカへ渡りショーを行い、1870年頃にはニューヨークやボストンでマジックショップを開いています。1876年には演技者に戻りアメリカ女性と結婚して1881年にイギリスへ戻ります。そして、演技者として20年間活躍し、1903年に亡くなっています。その代表的演技が”Devil of a Hat”になるわけです。

日本の明治時代の状況

明治初期から中期に活躍した奇術師の絵ビラには、中折れ帽からたくさんのマッチ箱の取り出しが描かれています。2020年発行の河合勝・長野栄俊・森下洋平共著「近代日本奇術文化史」の397ページに「シャッポ、マッチ出し」の奇術が紹介されています。そのビラを見ますと中折れ帽が使われているようでした。養老瀧翁斎や養老瀧秀のビラです。また、明治28年の吉川弥三郎著「一等奇術専門」には、つばが少し大きめの帽子で描かれていました。中折れ帽は柔らかさのある素材のフェルトが使われ、帽子のトップ部分に少しの凹みがつけられています。奇術で使用するメリケンハットとは、日本の初期に中折れ帽が使われていたことによる名前ではないかと思います。中折れ帽は内側を外へひっくり返すことが出来ますが少し硬さがあります。スムーズにひっくり返すためには、かなり柔らかくするか、もっと柔らかい帽子を使う必要があります。明治中頃までの方法では、帽子の内側をひっくり返す操作がなかったのではないかと思っています。海外の方法のように、テーブルへ置いた帽子を取り上げる時に、糸で束ねていたマッチの箱を密かに加えていたと思います。この時代の日本では、マッチの箱の取り出しが多く、これはタバコの箱よりも少し大きいものであったようです。いつから帽子の内外をひっくり返すあらためが始まったのかが気になるところです。

天一一座海外公演でのメリケンハット

1901年から1905年までの天一一座は、アメリカとヨーロッパへ公演巡業をしています。1903年はヨーロッパ各地で公演しています。そして、1904年のアメリカにおいて、天一のサムタイを指導する代わりに、ライプチッヒからリングとウォンドの奇術を教わっています。実際には天二が指導を受けています。この時にライプチッヒは天一一座の公演を観て、印象に残った演技として帽子のマジックを報告していました。女性が登場して、帽子の内側を外へひっくり返して(turnd inside outと記載)いろいろ品物を取り出し、さらに、客席へ帽子を投げて調べさせ、それを戻してもらい、その帽子からも品物を取り出していました。このことは1958年10月号のMUMで”Nate Leipzig’s Autobiography”の記事の中で報告されていました。その後、2006年のLevent & Karr共著”Roy Benson by Starlight”の後部の”A Record of Nate Leipzig”の中でも、その記事がそのまま再録されています。そして、松山光伸氏がネット上の東京マジック「ラビリンス」の中で「欧米巡業で松旭斎天一一座が演じた小奇術」として報告されていますので、是非、読まれることをお勧めします。さらに、「近代日本奇術文化史」の139ページには、1902年12月のアメリカの雑誌”The Cosmopolitan Vol.34 No.2”に、振袖の女性がメリケンハットを演じている写真がありました。「近代日本奇術文化史」の481ページにはメリケンハットの紹介がありますが、「天一一座の天二は、明治33年の中座興行で、瞞着帽子を演じた。」と報告されています。明治33年(1900年)は天一一座の海外公演の1年前であり、この時から帽子の内側を返すあらためが行われていたのかが気になります。そして、天一一座の女性に方法の指導をしたのは天二氏の可能性が高いと思いました。

現在使用されているメリケンハットの元になるもの

帽子の内側を外へひっくり返さないのであれば、客から借りた帽子で演じた方がよさそうです。帽子を客から借りないのであれば、内側を返すあらためを加えた方が効果的です。中折れ帽を柔らかくしてあらためが出来るようにしていたのかもしれませんが、もっと柔らかい別のフェルト製のものが使われた可能性が考えられます。その頃の海外では、女性用の帽子で使いやすいものがあったのかもしれません。1900年発行のセルビット著”The Magician’s Handbook”に”The Spinning Hat”のジャグリングの解説があり、それに使われた帽子も柔らかい円形の帽子です。coon singer(黒人シンガーの意味?)の多くに使われるようなソフトなフェルトの帽子を使うと説明され、大変柔らかい棒で回転させ、空中へ投げ上げては受け止める方法です。このような帽子が元になっていることも考えられますが、ハッキリしたことが全く分かっていません。

1921年の昇天斎登喜夫の「無尽蔵の帽子」より

帽子の内側を外に返すあらためが最初に解説されたのが、昇天斎登喜夫著「奇想天外大奇魔術集」第2編の本ではないかと思います。「無尽蔵の帽子」として解説されていますが、これが1968年の「奇術界報」321号に再録されています。裏表をあらためた帽子からタバコの箱を1つ出し、さらに1つ出します。そして、6~7個出して帽子をあらため、8~9個出します。次は帽子を舞台へ投げ捨てて足で踏み、取り上げてからタバコの箱を8~9個出しています。引き続きコップを20個ばかり出し、最後に鳩1羽を出して終わります。これら以外に多数のバネまりを出したり、無数のシルクハンカチや万国旗を取り出すことも書き加えられていました。取り出す品物を帽子に入れた状態での帽子のあらための解説が中心ですが、読んでも理解しにくい部分があります。また、タバコの箱を空中ヘ投げ上げている間に、テーブルにセットしたコップを取ってくることも解説されていますが、詳細な記載がありません。興味深い解説が鳩の取り出しです。この頃の男性の服装でもある洋服の上にマントを着て、ただし短い半マントにして、マントの内側に袋に入れた鳩をぶら下げて、帽子の中に袋を入れてから鳩を取り出していました。チャニング・ポロックで有名になったシルクからの鳩出しは、1940年代のメキシコ出身Cantuの肩にかけた布の衣装で鳩出しをしたことが最初と言われています。しかし、それよりも遥か前に、日本では柔らかい帽子からの鳩出しが演じられていたことになります。

戦前から戦後の日本の状況

1963年の金沢天耕著「奇術偏狂記」の64ページに、昭和12年(1937年)に観たプリンス・タイラーのメリケンハットの演技のことが報告されています。「私は今日までこれだけの見事な技術を持った、しかも舞台一面にくりひろげられる花やかな奇術を見たことがなかった。並いる会員もウーンとうなった」と書かれています。また、1936年4月のIBMのリンキングリング誌に、久世喜夫氏が大阪の会館で行われたプロ奇術師交流会の演技を報告されています。その中で吉田菊丸(吉田菊五郎の息子)が演じたのが、フェルトの帽子から約30のタバコの箱と10のメタルカップを取り出したことを報告されていました。さらに、1960年の奇術研究18号の平岩白風氏による「奇術素描」で、ジャグラー都一氏についての記事がありました。彼は初代一陽斎正一師匠より「メリケンハット」を教わったと報告されています。そして、1960年代以降の関西でメリケンハットが有名になるのが堀ジョージ氏です。3代目帰天斎正一師匠に弟子入りし、メリケンハットの指導も受けていたことをが分かりました。師匠を紹介した人物から、堀氏がメリケンハットのあらための指導を受けているのを目撃されていたからです。つまり、戦前の関西を代表する吉田派、帰天斎派、一陽斎派の演目でもあったといえます。 戦後のメリケンハットで有名になるのが関東のマギー信沢氏です。1959年の奇術研究13号の「奇術素描」においてマギー信沢氏が紹介され、メリケンハットの演技内容も報告されていました。「タバコ20箱が現れ、卓上につみ重ねられてびっくりする。次に手毬五つが色美しく盛り上がる。続いて風船三つがフンワリと浮かびあがる。さては色テープがサラサラと流れ出る。そのテープの中から、大きな旗を景気良く振り出すといった手順だ」とのことです。さらに、信沢氏は昭和17年に日本奇術連盟創始者の長谷川智氏に弟子入りされ、最初に習ったのがメリケンハットであったと述べられています。ところで、長谷川氏は昭和の初めの中学生時代に、初代一陽斎正一師のもとで指導を受け、ジャグラー都一氏と共に交流し、さらに、各地に師を求めて巡っていたそうです。このことは1969年の「奇術界報」330号に、松田昇太郎氏が「奇術の今昔」の中で報告されています。以上のことから、昭和のメリケンハットを語る上で、関西が大いに関わっていることが分かりました。

ふくらんだ風船の出現

日本でこれを最初に演じられたのは松旭斎天勝です。天一一座の欧米からの帰国後の1905年9月の東京歌舞伎座公演で「花と風船の術」として演じています。そのことは近代日本奇術文化史の103ページで報告され、その奇術の内容は450ページに天勝の写真と共に紹介されています。1枚の紙をあらため、コーンの形にして、その中から取り出していました。ちょうどその頃の欧米では、帽子から取り出す奇術として演じられていたようです。1907年7月の英国のEllis Stanyon著”Stanyon’s Serial Lessons in Conjuring No.17”の中で方法が解説されています。また、1909年の米国の”The Art of Magic”の”Inexhaustible Hat”(無尽蔵の帽子)の中でも解説されていました。

プリンスタイラー氏とメリケンハット

プリンスタイラー氏の昭和12年のメリケンハットの演技に感激させられたことは上記で報告しました。その後、金沢天耕氏の勧めで天勝一座に入り大きな功績を残しますが、昭和15年には退団されます。独自の一座での活動を望まれたからです。その後の活動状況は分かりませんが、昭和39年3月に第9回和歌山奇術愛好会公演が金沢天耕奇術生活30周年記念会として開催されます。その時にプリンスタイラー氏が「世紀のメリケンハット」のタイトルで演じられました。この時には堀ジョージ氏も中華セイロを演じられています。その後、タイラー氏は昭和40年と44年の和歌山の奇術公演に別の演目で出演されています。1968年大阪奇術愛好会発行の”The Svengali No.9”で、山本昭南氏が「すばらしい奇術師達」の中でプリンスタイラー氏について紹介されています。「舞台を広く使う人である。又舞台をはなやかに大きく見せる人である。彼がでれば、ステージが狭く感じる。そういう人である。プリンス・タイラーの芸は独創的なもので誰も真似ができない。トリックは自分で考案し、その道具は全部自分で作る。・・・(途中省略)・・・彼の得意芸はメリケンハットで、その研究と実技は世界一であろうと思われる。ハットの返し、ネタ運び、出し物、体の動きは研究に研究を重ねられ、現在プロがやっている演出は何十年も前にすでに、タイラーによって実行されているのである。その秘密は堅く守られ、非常にトリックを大切にする人で決して巷に流れない。」と報告されていました。タイラー氏の昭和39年の演技を見られた別の方に伺うと、たくさん取り出して舞台が狭く感じた記憶があるそうですが、何を取り出されたかまでは覚えていないそうです。昭和39年の奇術研究33号と35号には和歌山と東京で演じられた時の写真が掲載されていますが、いずれも大きな花がいっぱいになって挨拶している最後の写真だけで、メリケンハットを演じている途中の写真がないのが残念でした。

堀ジョージ氏とメリケンハット

関西でメリケンハットといえば堀ジョージ氏が有名でした。2010年に亡くなられています。3代目帰天斎正一師匠に弟子入りされ、帰天斎正旭の名前をもらっていますが、その名前は使わず和妻も行わず、教わったメリケンハットや中華セイロをさらに発展させています。木村マリニー師匠とも交流され、曲芸の師匠とも関わりを持ち、東京の村上正洋師匠とも関係を持たれていました。メリケンハットに関してプリンスタイラー氏から直接の指導を受けていませんが、タイラー氏の方法の追及をされていたようです。昭和39年にタイラー氏が和歌山でメリケンハットを演じた時も、堀氏も出演され中華セイロを演じています。同じ年に東京で松旭斎天洋60周年記念の催しが開催されますが、その時もお二人が出演されていました。その後はジョニー広瀬氏とも交流され、常にマジック全般の新しい情報を取り入れられていました。裁縫を得意とし、全ての道具を製作し、方法を研究され、奇術教室や奇術道場も開かれていました。堀氏のメリケンハットの演技映像や書かれたものがありませんが、印象的なことだけ報告します。バネまりが取り出されるだけでなく、硬い金属製のコップを次々と取り出しアシスタントへ投げて、テーブルの上へピラミッド状に積み上げています。驚きは5つのランタン(円柱形の提灯)を取り出しますが火のついたロウソクが入っています。最後には多数のシルクを帽子から落下させ、ランマンで受け止めて蓋をして、蓋を開くと蓋と本体の両方に巨大な花を出現させています。演技時のリズミカルな動きが特徴ですが、胸やその他の体からの取り出しにも工夫が加えられています。特に捨てバックからのロードも特徴的でスマートに行い、マニアにもロードしたことを感じさせないうまさがありました。

おわりに

最近のメリケンハットに大きな影響を与えているのはプリンス東陽氏です。昔はアイビデオからメリケンハットの解説ビデオを出され、現在ではUGM社からDVDが発行されています。メリケンハットのあらためと基本的な演技、そして、それ以外の各種方法が解説され全体像が分かるようになっています。プリンス東陽の名前がついている点でプリンスタイラー氏との関係が気になりますが何も分かっていません。最近では上口龍生氏も解説DVDを発行されていますので参考になります。なお、最近では養老瀧之丞 (北見翼)さんやTokyo Tomoさんのメリケンハットを見せて頂きましたが素晴らしい演技でした。柔らかい帽子を使って裏表を返すあらためを加えたのは松旭斎天二氏か別の人物であるのかが分かっていません。プリンスタイラー氏の演技内容も全く分かっていません。昭和12年の出演時の宣伝文句が「アメリカ帰朝」と書かれていたそうですが、経歴が全く分かっていません。アメリカ帰りではないとしても、1911年のJoseph Hartzの”Devil of a Hat”の解説を読まれて、派手にたくさん取り出す影響をうけていたかもしれません。この点は想像でしかありません。そして、堀ジョージ氏がプリンスタイラー氏のどのような点を取り入れられたのかも気になる点です。結局、謎がいろいろと残ったままとなったのが残念です。そして、今回の調査で興味深いことがいろいろと分かりましたが、より一層、関西の奇術師の調査の重要性を感じました。

参考文献

1857 Dick & Fitzgerald Magician’s Own Book The Cannon Balls

1876 Hoffmann Modern Magic Hat Tricks
    Cannon Balls Multiplying Balls(バネまり)  Goblets
    Dozen Babies Reticules(ハンドバッグ) Birdcages

1885 Edwin Sachs Sleight of Hand The Cornucopian Hat

1886 Henri Garenne The Art of Modern Conjuring Tricks with Hats

1890 Hoffmann More Magic Tricks with Hats
    Hartz and Hat Trick Flower-garden Folding Bouquet
    Cannon-ball Paper Ribbon Barber’s Pole

1895 吉川彌三郎 一等奇術専門 帽子の内より摺附木を数多出す術

1902 Hoffmann Later Magic Tricks with Hats
    Methods of Loading a Hat Half a Dozen Babies
    Alarm Clocks Flower-Balls Bouquets Garland of Oak-leaves

1907 Ellis Stanyon Stanyon’s Serial Lessons in Conjuring No.17

1909 Nelson Downs The Art of Magic The Inexhaustible Hat

1911 Hoffmann Magical Titbits Joseph Hartz’s Devil of a Hat

1911 Hoffmann Later Magic改訂版 Joseph Hartz’s Devil of a Hat掲載

1921 昇天斎登喜夫 奇想天外大奇魔術集第2編 無尽蔵の帽子

1936 久世喜夫 The Linking Ring Vol.16 No.2 吉田菊丸

1958 MUM VOl.43 No.5 Nate Leipzig’s Autobiography

1959 平岩白風 奇術研究13号 マギー信沢氏の奇術素描

1960 平岩白風 奇術研究18号 ジャグラー都一氏の奇術素描

1968 山本昭南 The Svengali No.9 すばらしい奇術師達 プリンスタイラー

1968 奇術界報 321号 奇術名著紹介 大奇魔術集より 無尽蔵の帽子

2020 河合勝 長野栄俊 森下洋平 近代日本奇術文化史
    西洋奇術演目図説 94 シャッポ、マッチ出し 265 メリケンハット


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