21世紀に入り、FISMに大きな影響を与えていたのがブラックアートです。2003年のFISMクロースアップのグランプリを米国のJason Latimerが獲得されていますが、ある意味ではブラックアートの応用と言えます。この年のカード部門の1位はスペインのMago Migueが獲得しましたが、その演技にも部分的にブラックアートが使われていました。2006年のマニピュレーション部門2位を獲得されたポルトガルのデビッド・ソーサもブラックアートを使っていました。FISMマニピュレーション部門受賞者でブラックアートを大々的に取り入れたのはソーサが最初かもしれません。2012年のステージ・グランプリを受賞されたYu Ho Jinも一部分で使われているようでした。最近のFISMでは、ステージでもクロースアップでもブラックアートの使用が増えている印象があります。2018年クロースアップ・グランプリの台湾のEric Chienの素晴らしい演技もその一つです。
ブラックアートの歴史は古く、現段階で分かっている最も古い解説が1740年のスペインの本です。天井に向かってデックを投げ上げてカードをバラバラに落下させますが、天井には10枚のカードが張り付きます。客にカード名を言わせると、そのカードが落下し、演者が持っている帽子で受け止めます。この解説を読みますと、明らかにブラックアートが使われていました。これより古いブラックアートとして元禄期(1688年~1704年)の塩屋長次郎による呑馬術を指摘されていた時期がありました。しかし、現在ではほぼ否定されています。呑馬術とは馬を飲み込むイリュージョンです。当時のことを調べられた松山光伸著「実証・日本の手品史」や河合勝・長野栄俊共著「日本奇術文化史」により、実演されていた可能性がないことが様々な視点から報告されていました。
ブラックアートといえば、1885年から人気となった舞台を真っ暗にして客席へ向けて光を照射し、ありえない現象を起こすイリュージョンが代表的です。しかし、それ以前から、ステージを使いませんが同様な考えを使った演技が行われていたことが知られています。さらに、20世紀に入って、ブラックアートの使い方が変わってきました。その中でも特に感激したのが、1905年のデビッド・デヴァントの「マスコット・モス」での使用です。背景は黒でも、ステージを真っ暗にしなくなりました。ステージ中央に女性が羽を広げた蛾として登場し、演者が触ると空中に吸い込まれるように消失します。あまりにも素晴らしいので、1982年12月から83年8月までブロードウェイで上演されたダグ・ヘニングのマジックショー「マーリン」の演目に取り入れられました。その装置を製作した時の苦労話が、ジム・ステインメイヤー著「ゾウを消せ」に報告されています。さらに、20世紀ではステージにおける簡易なブラックアートも登場しています。そして、21世紀に入り、マニピュレーションにブラックアートが大々的に取り入れられたことが印象的です。クロースアップの場合は、特に興味深い解説が1909年の”The Art of Magic”に掲載されていました。コインやカードのマジックに使われていますが、いずれも少し離れて見る必要がありそうでした。しかし、1980年代の米国のマーク・レフラーのコインやスペインのJose Carrolのカードはうまいカバーが使われ、近くで見ても演じられるように進化していました。今回は、ブラックアートの歴史をもう少し詳しく報告させていただきます。
ステージを真っ暗にして、白い服を着たインド風の演者が、次々と不思議現象を起こすマジックがブラックアートだと思っていました。女性の頭から輪っかを通すと消えたり別の所で再現させたり、ガイコツが出現し手足がバラバラになってダンスしたり、白ウサギを投げると消失するなどといった現象です。かなり昔に見たような記憶があるのですが、最近では10数年前のIBM大会でも見ることがありました。一度は見た方がよい演目ですが、タネに関しては一般の人もすぐに見当がつくのではないかと思っています。
21世紀に入って、フォーエースアセンブリー全体を調べ始めたときに、1909年の”The Art of Magic”の本の5作品を読みました。1番目と3番目の方法は、通用するとは思えない笑ってしまいそうな方法でした。1番目では余分な3枚のエースを使い、各パケットのボトムにある余分なエースを処理するのに、テーブルをカバーしている布の中央部を使っていました。中央部が二重になっており、パケットを前方へ移動させるときにボトムカードだけ処理できるようになっています。投げた白ウサギを黒布で包んでキャッチするのと同じだと思ってしまいます。また、3番目の方法でも余分な3枚のエースを使用し、その3枚の裏にはテーブルカバーと同じ布を貼って、3枚をテーブルに並べても何もないように見せた状態で行われていました。いずれもパロディーかと思ってしまう方法でした。そのことを読んだ少し後のIBM大会で、アルゼンチンのヘンリー・エバンスがゲスト出演され、ブラックアートを使ったカードマジックを演じられ、結構、通用することに感心させられました。
FISMマニピュレーション部門2位のポルトガルのデビッド・ソーサの赤い封筒を使った演技は、うまくてスマートなだけでなく、不思議さが強烈でした。その頃は、それがブラックアートの考えを使ったものとは思っていませんでした。その後発行された彼のDVDにより、ブラックアートが各所でうまく取り入れられているのが分かり、時代の進歩を痛感させられました。もちろん、それまでにもブラックアートをバックパームの補助として使うことがありました。特に1994年の横浜FISMマニピュレーション3位のピーター・マーベイのように、指を開いたままのカードの取り出しや消失には使われていた可能性が高そうです。しかし、もっと積極的に取り入れていたのは、ソーサが最初と考えられます。
ブラックアートは英語の辞書では魔術、黒魔術、妖術などとなっています。マジックとしてステージを真っ暗にして演じた最初は、1885年のドイツのMax Auzingerです。しかし、まだ、ブラックアートとは呼ばれていませんでした。「インドとエジプトの不思議」のタイトルで演じられ、演者名もそれらの国の名前のようなBen Ali Beyにしてベルリンで演じられました。1886年には、一緒に演じていた仲間が独立して演じたり、別のドイツ人が米国やカナダで演じるようになります。また、1886年12月には英国のBuatier De Koltaが、独自で考案したものとして英国で特許を申請して演じています。
マジックにブラックアートの名前を最初に使ったのは、1887年のAchmed Ben Aliのようです。彼は米国人で本名はウイリアム・ロビンソンです。彼のブラックアートの人気が高く、数ヶ月ものロングランとなります。成功した理由の一つに、元ダンサーであったアシスタントの小柄な女性とのコンビネーションが素晴らしかったからのようです。彼女の名前はドットの愛称で呼ばれていました。1890年前後はハリー・ケラーの要請で団員となり、その後は米国でトップの評判のアレキサンダー・ハーマン一座に加わります。そして、1900年から彼はチャン・リン・スーの名前に変え、アシスタントの女性はスー・シーンの名前に変えて中国人マジシャンになりきり、世界的に有名になります。ブラックアートのAchmed Ben Aliの評判の高さからか、米国ではよく似た名前のマジシャンAchmed Ali Beyも1887年から登場するようになります。その中の一人が、1888年に来日したワッシ・ノートン一座の中でブラックアートを演じています。来日したAchmed Ali Beyのことは、松山光伸著「実証・日本の手品史」に報告されていますので是非お読み下さい。
なお、日本ではこのようなブラックアートが、ワッシ・ノートン一座の来日以降に黒技とかモルモットの名前で演じられていました。また、その頃には松旭斎天一が「暗室器物架空運転の術」として演じられたことも報告されています。1952年発行の近藤勝著「日本奇術文献ノート第6号」には、木村マリニーについての興味深い記載がありました。奇術の師匠はいないそうですが、無理にあるとすれば1902年~03年の全世界正一くらいと言っています。この頃の木村氏は8才から9才で、モルモット(ブラックアート)の後見をしたと話されていました。昭和に入ってからのブラックアートで有名なマジシャンは、ソルカとオマール・パシャがあげられます。パシャの演技はネットの動画で見ることができます。そして、21世紀に入ってからの驚きは、オランダのGer Copperが楽しい現代的なブラックアートショーを行っていたことです。彼は1979年のFISMグランプリを獲得されたマニピュレーションの名手ですが、2020年8月7日に亡くなりました。You Tubeでは彼のマニピュレーション映像や楽しいブラックアートショー映像を見ることができます。
1885年のBen Ali Beyは、ステージを使うといっても全くイメージが違うものでした。ステージから60センチの高さの空間をあけ、3.6メーターの幅の箱型で内側を真っ黒にした中で演じています。演技時間も長く、セットを変えるために途中で休憩が入ります。4脚のテーブルが出現し、頑丈なことを示します。さらに、二つの大きな金属製の容器が現れ、観客に渡して調べさせます。それぞれに黒豆と白豆を入れると、一方にはいっぱいのコーヒーが、他方にはいっぱいの角砂糖が入った状態になります。その後、カップと皿が出現し、コーヒーを入れて客に飲ませます。休憩後には、小さい樽が出現し、中が空であることを示した後で大きな花のブーケを何度も取り出します。その後、巨大なヘビのようなものを引き出すと、空中をくねらせて演者の顎に飛びつきます。いくつもの大きなボールが出現し、樽がいっぱいになるまでボールを入れて樽を前方へ傾けると全てがなくなります。さらに、額縁を示して骸骨の絵を描くと生命を得てダンスしたり、女性が出現して演者に合わせた衣装に変わります。最後に演者自身の頭を取り去ってテーブルへ置き、それを演者の肩に戻してお辞儀して終わります。セリフが多く、あらためも多く、全体的に動きが少ない演技のようです。 上記に対して1887年のAchmed Ben Aliの演技は、ブラックアートの人気をさらに高める影響力のある内容であったようです。わざわざステージを高くすることなく、簡単に準備できるようにしています。テーブルが出現し空中を漂い、小さい種から突然にオレンジの木が成長します。杖がヘビに変化し、ニョロニョロとステージの袖まで移動します。バスケットいっぱいのリンゴが消えて、別の空であったバスケットへ移ります。ウサギを空中へ投げると消失し、ガイコツが突然現れてバラバラになり、空中を漂います。最後に演者がステッキのような棒に乗ると浮かび上がり、挨拶すると演者が突然消失し棒だけが残ります。アシスタントの女性ドットとの素晴らしいコンビネーションがあっての演技です。以上のそれぞれの演技内容は、2005年発行のジム・ステインメイヤー著「チャン・リン・スー」の本を参考にしました。
1885年からステージを真っ暗にして次々と不思議現象を起こしていますが、それ以前から小規模でブラックアートの考え方が使われていました。1884年には、ドクター・リン考案のThauma(ソーマ嬢)の生きている半身女性がロンドンで話題になります。真っ暗な小部屋の中のブランコに女性の上半身が乗っており、普通に会話が出来ます。胴体から下が後方の水平な布で支えられており、黒い布で覆われているために見えない状態です。しかも、小部屋の前方にはライトが外方へ向けて照らされています。1886年米国発行のHenri Garenne著”The Art of Modern Conjuring”に”The Thauma Illusion”として考案者名の記載がなく解説されています。
ドクター・リンは1870年代初めにも「生きているマリオネット」を考案されています。キャビネットの中のテーブルの上に立っているマリオネットが人間のようにしゃべります。首から下はマリオネットですが、白塗りの顔は人間です。背景の黒幕から顔を出して、顔の下に人形の胴体と手足がつけられています。1880年度版のホフマン著”Modern Magic”の後部にはArprey Vereによる”Appendix”(付録)の約50ページが加わり、このマリオネットのマジックが3ページかけて解説されていました。日本ではこのベアーの本の翻訳を中心にした久野良三訳「西洋魔術工」が1888年に発行され、「西洋福助踊り」として解説されています。
このドクター・リンは開国前の1963年に日本を訪れており、当時はシモンズの名前でした。松山光伸著「実証・日本の手品史」によりますと、シモンズの演技として自分の首を切り取り、その首を小脇にかかえていたことが報告されています。Gibecière Vol.10, No.1には松山光伸氏が1867年のシモンズの兄の特許取得の記事を掲載されており、頭を背景と同じ色のcapやboxで隠す方法になっていたそうです。
1931年発行のドイツ語の英訳版Ottokar Fischer著”Illustrated Magic”によりますと、19世紀前半に馬の消失がブラックアートで演じられていたとのことです。ステージ全体に黒い布をはりめぐらせ、白馬に白い布をかぶせて取り去ると、馬が消える現象です。白い布の内側に黒い布を重ねて馬にかぶせ、白い布だけを取るわけです。馬に人間が乗った状態や多数の人間を、同じ方法で消失させることもあったようです。
そして、今のところブラックアートの最初となるのが、冒頭で報告しました1740年のスペインの天井カードのようです。2011年Gibecière Vol.6 No.2に、スペイン語のDiego Joseph Zamoranoの本を英訳して解説されていました。それぞれの天井カードをカバーする少し大きめの黒く塗られたカードだけでなくジャリも使われています。天井を使うのは面白い発想です。これよりも古いブラックアートの使用が報告されていますが、それは宗教の布教のためにワイヤーを黒く塗って、人間を空中に舞い上がらせたり浮遊させたりしていたようです。これはブラックアートの歴史よりも、ワイヤーやジャリ使用のマジックの歴史となりますが、ブラックアートの考え方では関わりがあるとも言えます。
元禄期(1688年~1704年)には、塩屋長次郎が馬を呑む術(呑馬術)を演じたと報告されていました。現在では、呑馬術はブラックアートを使えば可能と考えられていますが、当時は呑馬術が演じられていなかっただけでなく、演じることができない状況であったことが分かっています。詳細は松山光伸著「実証・日本の手品史」や河合勝・長野栄俊共著「日本奇術文化史」に多くのページで報告されていますので、是非お読み下さい。ここでは主要点だけ紹介させていただきます。
ステージを真っ暗にしたブラックアートの効果を高めるには、光を全て吸収して反射させることがないベルベットのような布の存在と、ろうそくより遥かに強力な光を発するガス灯の存在が大きいとされています。これらがなかった元禄期は効果的なブラックアートが困難であったと考えられます。さらに、もっと重要な問題が、塩屋長次郎が活躍していた元禄期の芝居小屋には屋根がなく、昼間しか興行できなかったことです。人が多く集まる室内での催しの場合、灯火の使用が禁止されていたわけです。自然光が入る明るい状態での興行となります。火災防止のためと風紀の問題で、特に元禄期は厳しかったようです。つまり、ブラックアートが使えず、呑馬術が演じられていなかったことになります。それでも、塩屋長次郎が出演している小屋で、馬を呑むと宣伝していたのは、昔話を利用して大げさな口上を述べ立てて、多くの通行人を立ち止まられ、小屋へ呼び入れるためであったようです。なお、大名屋敷で塩屋長次郎が実際に演じた演目の記録によりますと、いろいろ演じた中には呑馬術がなく、呑み込む演技としては「小刀呑み」の記載があっただけでした。
20世紀に入って最も感激したブラックアートの応用が、1905年のデビッド・デヴァントの「マスコット・モス」です。Buatier De Koltaが以前に発表した「消える貴婦人」に、ブラックアートの考えを加えて発展させたものです。「消える貴婦人」はイスに座った女性に布をかぶせて、布を取り去ると女性が消えている現象です。多くのマジシャンが演じるようになりますが、Buatier De Koltaは布を取らずに、布の近くで両手を大きく広げるだけで布が消失し、同時に女性も消える現象にしていました。このことは1890年発行のホフマン著「モア・マジック」の「消える貴婦人」の解説の中で記載されています。しかし、布の消失が失敗しやすい方法になっていたために、他のマジシャンが使うことがありませんでした。デヴァントは大きな羽根をつけた女性を蛾に見立てて、演者の横にきて羽根を閉じた時に触ろうとすると、演者の頭の近くで吸い込まれるように消えてしまいます。マジック全体の考え方は「消える貴婦人」と同じですが、羽根を消す部分で進化したブラックアートの発想を取り入れていました。この演技を見ることはできませんが、その考えを再現させたダグ・ヘニングの「マーリン」のショーのその部分の映像があれば見てみたくなりました。
ブラックアートを少し違ったことに応用したのがマジックテーブルです。1904年のホフマン著「レイターマジック」の本に落とし穴がついたテーブルが解説されます。少し離れますと、穴の存在が分かりません。この本では特に名前がありませんが、その後、ブラックアートテーブル、または、ブラックアートウェルの名前がつけられます。ウェル(well)には井戸や穴の意味があります。この本では丸いテーブルで、その上に被せられた黒布に白色で数個の円が描かれ、その一つの円に落とし穴のポケットが仕掛けられています。その後、四角形のテーブルにセットされることが多くなり、被せられた黒布に縦と横に白いリボンで線が付けられ、四角の落とし穴が仕掛けられたものが中心になります。レイターマジックの本では、考案者をRobert HellerとDe Vereと書かれていましたが、1994年のリチャード・カウフマン編集によるターベルコース8巻ではホフジンサーが最初とされていました。
また、プロダクション用の道具の「スクウェア・アンド・サークル」にも、ブラックアートの考えが使われるようになります。外側が四角の筒で内側には円柱形の筒があり、外側の四角の側面の一つに大きな穴が開けられており、そちらを客席に向けて内側がよく見える状態にしています。内側の筒を上方へ取り出すと、四角の筒の内面は真っ黒で何もないように見えます。これが1953年のターベルコース第6巻に解説され、その中では原案者はルイス・ヒステッドとなっています。これを改良したレス・レバンテが1939年に米国で初めて演じたそうです。なお、日本ではこのマジック道具をブラックアートの名前で販売されています。
1958年発行の奇術研究臨時号に、アイアランドの「誰にもできるブラックアート」の全訳が掲載されています。その中の一つが「幽霊酒場」で、幅60センチ、高さ90センチほどの箱がキャスター付きのテーブルに乗せられてステージに運ばれます。箱の内部は前方の低い位置に棚があり、後方の高い位置には2段の棚があり酒瓶が並べられています。この中でいろいろな不思議現象が起こります。例えば、前方の棚の上のビールビンの蓋が弾き上がり、コップにビールが注がれて演者の方に移動したりします。後部に黒い幕があり、その後ろに隠れた人物が黒い布を手から腕にはめて操作しているわけです。同じ考えを使った降霊術の現象も解説されていました。
今回、ブラックアートを調べる中で、クロースアップでは1980年代に私の好きな二人のマジシャンが新しい考えを取り入れられていることが分かりました。米国のマーク・レフラーはショットグラスとコインを使って、伏せたグラスにコインがない状態で、グラスを持ち上げるとコインが出現するテクニックを解説して手順化しています。もちろん、ショットグラスは何の仕掛けもない普通のグラスです。また、スペインのJose Carrolは半透明な布の上でカードのアセンブリー現象を演じています。半透明な布の下へ入れたカードが消失して別の場所から現れます。いずれも、割合近い距離から見ても演じられるように工夫されていました。2003年FISMグランプリのJason Latimerのカップ・アンド・ボールにも新しい工夫が見られました。
2017年に来日されたトム・ストーンのスポンジボールの消失では、ブラックアートを使った形跡すら感じさせない強烈な不思議さでした。レクチャーで方法を解説されて、ブラックアートの使い方の素晴らしさに感激させられました。2018年来日のスペインのルイス・オルメドのクロースアップでは、ブラックアートを使っても素早く処理してゆくことに感心させられました。 ブラックアートには背景と照明が重要な要素となりますが、最近では照明をそれほど気にしないで行える演技も増えています。しかし、まだまだ、ブラックアートの効果を高めるために照明を暗くすることがあります。その場合には、少し離れると現象が見えにくく、スクリーンでも見えにくくなる問題があります。FISMでは斬新な驚きのある現象でなければ上位入賞が難しくなり、演技をスクリーンでも同時に見る時代となっているために、ブラックアートの使用が増えている印象があります。今後はブラックアートの使いすぎに注意が必要なようです。
ステージのマニピュレーションのブラックアートに興味を持ったことから歴史全体も調べることにしました。その調査の中で、1740年の天井カードのことや、19世紀末から活躍したチェン・リン・スーやデビッド・デヴァントのブラックアートとの関わりも分かり、大変興味深いものになりました。特にデヴァントのマスコット・モスの演技を実際に見てみたかった思いが強くなりました。そして、ブラックアートも使い方であり、これまで以上の不思議さを提供できる反面、ブラックアートだと分かってしまう使い方はしない方がよいと思いました。参考文献はブラックアートを使ったマジックの解説だけでなく、ブラックアートについて書かれた文献も取り上げています。