アダチ龍光氏といえばリンキングリング(チャイニーズリング)が有名です。1923年(大正12年)に木村マリニ師匠から独立した時にはリンキングリング一つだけを演じていました。当時は金輪と呼ばれていたようです。師匠からそれ一つで勝負した方がよいとの助言を受けています。他のマジシャンも金輪を演じていますが、それらよりも客受けすると師匠が考えてのことだと思います。なお、奇妙なことは、師匠の持ちネタの中には金輪がなかったことです。木村マリニ氏は無声の海外映画の弁士として活躍していた時に、世界的に有名なマックス・マリニの通訳を務めています。その時に多数のマジックの秘密を知り、その後、弁士をやめてマジシャンになっています。そのマックス・マリニに関しては、1963年発行の”Malini and His Magic”の本が有名で、その中には多数のレパートリーが紹介されていますが、そこにもリンキングリングを演じていた記載がありません。彼のマジックでは小さい道具の使用が中心で、袋玉子が最も大きい道具となりそうです。なお、マリニの袋玉子は、他の人が使っている袋に比べて小さいことで有名です。また、以前のコラムでリンキングリングを調べた時にも、リング関連の多数の本からはマリニとリングを結びつける記載がありませんでした。マリニがリングを演じていた記録や写真が全く見つかっていません。そうであるのに、アダチ龍光氏が他のマジシャンに負けない金輪を、1923年段階で修得されていたのが不思議でしかたありませんでした。その謎が少し解明されたように思いましたので、今回、報告させていただきます。
1894年生まれで本名は木村壮六です。はっきりした年数が分かりませんが、1913年頃には海外映画担当の花形弁士「木村紅葉」としてデビューされていたようです。1913年にマックス・マリニが来日していますので、その時の公演で木村紅葉がマリニの通訳をされていた可能性があります。または、その時は公演されず、少し後の再来日時の公演であったのかもしれません。木村紅葉は英語ができないのに収入がよい理由で海外映画の弁士をしていたので、マリニとは詳しい打ち合わせができません。しかし、観客を魅了する語りであったためか、マリニも彼の通訳でよいと思ったようです。数日に渡り行動を共にする中で、マリニのマジックの方法を習得し、それがその後の木村マリニの持ちネタとなります。演技を見て覚えて、自分の方法を工夫する考えは、その後もつらぬかれています。持ちネタとして159の名前が記録されていますが、その中にリンキングリングがありませんでした。マックス・マリニは1913年から1919年10月までの7年間をオーストラリアを中心にアジア諸国で演技されています。そして、1919年にアメリカへ帰国する前に来日したのが9月末です。その頃に木村紅葉は弁士をやめ、9月25日にプロマジシャンとしてデビューし、1年間のスケジュールもほぼ組まれていたようです。その最初がマリニとの共演ですが、実際には前回と同様の通訳であったと思います。この時の日程が、1984年発行の近藤幸三著「奇術その魅力その世界」の中で、木村マリニによる「マリニ日記」に記録されていました。「9月30日、10月1日2日と横浜座にマリニと出演。10月4日5日6日7日8日の5日間を東京新富座に出演。マリニ氏は12日横浜より帰米」。そして、10月6日にアダチ龍光氏が弟子入りします。アダチ龍光氏の話では、弟子入りしたその日から特訓が始まり、1本のシガレットの消失と再現を2回見せて、その奇術を何の指導もなく、やってみなさいと言われたそうです。マジックを見る集中力とタネを見抜く能力の訓練と言えそうです。初日からこの特訓をしたのは、翌日の7日と8日のマリニの演技を見させるためと考えられます。舞台の袖から見させて、演技を覚えさせてタネを推測させていた可能性が高くなりました。
これまでに読んだ本では5回ほど来日されていた可能性が書かれていますが、年数がはっきりしているのは1913年と1919年と1935年の3回だけです。1907年頃にも来日した可能性があるのですが確定できていません。ちょうど世界中をツアーされており、アジアにも来ていますので来日していたと考えられます。1976年発行の松旭斎天洋著「奇術と私」には明治40年(1907年)頃に来朝したと書かれています。その時の呼び物が「不思議なトランク」となっていました。現在でもよく演じられているトランクの中と外の人物の入れ替わりです。マリニがこのような大きな演目をされていた記録がないので、別のマジシャンの演目と思い違いされている可能性も考えられます。
1913年から1919年の7年間はオーストラリアを拠点にしてアジアを中心とした活動をされています。第1次世界大戦が1914年から1918年まで続いたためにアメリカへ戻るよりも、その影響が少ないこの地域に留まられたのだと思います。さらに、ドイツとオーストリアが連合国でアメリカの敵国であり、マリニと奥さんがオーストリア生まれであったことからもアメリカへは戻りにくい状態であったのかもしれません。そのアメリカを離れた年と戻る年に日本を訪れていることになります。1913年に日本で撮られた写真が1986年発行のリッキー・ジェイ著”Learned Pigs & Fireproof Women”に掲載されています。日本では1995年に「世紀末奇芸談」として日本語訳されています。マリニと奥さんが和服を着て、奥さんが人力車に乗っている写真です。奥さんのお腹の大きさが分からないように人力車に座らせていたようです。そして、この年の5月にフィリピンのマニラで最初の子供が生まれます。次の1919年の来日に関しては、上記で報告しました木村マリニの記録にハッキリと日時が書かれています。
1935年に関しては東京アマチュア・マジシャンズ・クラブの「TAMC 50年のあゆみ」や1935年の会報に、6月18日にTAMCを訪れたことが報告されています。2012年10月のGenii誌には年数の記載がありませんが、6月18日と19日の午後8時30分よりホテル・ニューグランド横浜でマリニのゲスト出演の記事が掲載されています。これはこの1935年のものと思われます。
なお、松旭斎天洋著「奇術と私」には、マリニの再度の来朝が1926年(大正15年)だったと思うと書かれ、横浜のニューグランドホテルで公開され、その時は老齢で舞台ではよばよぼしていたが、奇術は上手だったと報告されています。1926年ではマリニの年齢は、まだ53歳であり、よぼよぼしていたとは考えられません。1935年であればマリニの年齢が62歳でよぼよぼしていた可能性があります。そして、天洋氏が報告されたホテルはホテル・ニューグランド横浜のことで、関東大震災の後で建設され、創業が1927年からとなっていました。1963年発行の”Malini and His Magic”の本の最後の部分の記載では、1925年?と書かれ、韓国でのエピソードが報告されて、その後、東京へ行った記載となっています。もしかしますと、その頃に来日されていたのかもしれませんが、正確なことは分かっていません。
1873年のオーストリア生まれです。ポーランドの国境に近い町であったためか、多くの文献では出身がポーランドと書かれています。10歳の頃にアレキサンダー・ハーマンのステージを見て大きな影響を受けています。1987年か88年に家族と共にアメリカへ移り、その10代で元マジシャンであったSeidenが経営するバーでウエイターのアルバイトをしています。seidenからスライハンドを中心にマジックを教わり、1876年の「モダンマジック」や1885年のSachs著「スライト・オブ・ハンド第2版」を読んで勉強しています。後者の第2版の本はマリニがあこがれたアレキサンダー・ハーマンと関係が大きい本であることが2012年10月のGenii誌でDavid Benが報告されています。なお、1877年発行の第1版は204ページしかなく、第2版の半分より少し多い程度です。現在出回っているのは第2版以降が中心です。結局、第2版はその頃の最新のマジックがかなり追加されたと考えられます。
1900年にシカゴへ移りアメリカの市民権を得ます。そして、シカゴで一人の女性を好きになり父親に結婚の許可を求めますが拒否されます。この彼女や父親とのことはGenii誌に詳しく報告されています。富も名声もないからと考えて、アメリカ大統領や英国貴族などの上流階級の集まりで演技して知名度を上げて、1906年にシカゴへ戻った時に彼女の父親に許可を求めますが再び拒否されます。アレキサンダー・ハーマンぐらいになる必要があると考え、世界中を旅して英国だけでなくインド、オーストラリア、アジアも巡って富も名声も得て1911年にシカゴに戻ります。今回も父親から拒否され、駆け落ちして彼女と結婚することになります。1913年から1919年までオーストラリア中心に活動し、アジア諸国も巡ってアメリカへ戻ります。1921年に奥さんが死亡し、マリニは1942年にハワイで亡くなっています。
マリニのことが書かれている文献を調べても、リンキングリングが演じられた記載をなかなか見つけることができませんでした。マリニの場合は、劇場で演じるよりも上流階層の社交場で話題を集めるような演目が中心で、カードや身の回りにあるものばかりです。新聞での話題性のある記事や、トップクラスの人物からの紹介で世界中の王族や貴族相手に演じられています。リンキングリングはよく知られたマジック道具で、不思議であっても話題性が少なく、重くてかさばるために使われていないと思っていました。ところが、やっと、マリニとリンキングリングを結びつける記事を見つけることができました。これも2012年10月のGenii誌の記事です。1916年のオーストラリアのメルボルンにある小さいホールで開催された、高額な入場料のマリニの演技が報告されていました。小さい品物を使うマジックがほとんどであった中で大き道具のリンキングリングが演じられています。これはアレキサンダー・ハーマンが使っていたリングで、奥さんから贈られたものであると紹介して、自分の演技が最高に良かったからであると自慢されていたそうです。これは1980年発行の”Magical Nights at The Theater”の中でCharles Wallerが報告していた記事ですが、彼の感想ではリングの演技をそれほど良いとは思わなかったそうです。
私が思ったのは、彼は1909年のメルボルンの劇場でチャン・リン・スーのリンキングリングも見ており、芸術的でハイセンスな演技であったとほめています。つまり、その演技と比較してのことだと思いました。チャン・リン・スーの演技に関しては、1903年12月のStanyon編集のMAGIC誌に報告されているのですが、チャイナ服の美的な素晴らしさとアシスタントをうまく使った演技のようです。全てのリングを観客に調べさせた後で、複数のキーリングとチェンジしてマジシャンに戻しています。その時のアシスタントとの受け渡しをリングを投げて行っており、その他の演技の中でもアシスタントに投げたり、リングを空中へ投げ上げたり、床へバウンドさせたりした派手さのある内容になっています。途中で全てが1本ずつ完全にバラバラであることを見せたり、全てを連結させることも見せていた演技であったそうです。
ところで、このCharles Wallerは1923年に”Foy Magicians Only”の本を発行されていますが、その中のリンキングリングの演技がほぼアダチ龍光氏の演技内容と構成が同じであることが分かりました。このことにはかなり驚きました。つまり、マリニの演技を見たことのある二人が、同様なリンキングリングを演じているわけです。マリニ自身のリンキングリングの演技がこれに近いと考えられます。マリニの演技をそれほどではないと書きながら、自分の演技にはそれを取り入れていたわけです。なお、Charles Wallerは会社員でアマチュアマジシャンです。この本が発行された時には既にアダチ氏はリングの演技をされており、また、二人が会うこともなかったと考えられます。マリニの演技が二人に影響を与えたとしか考えられません。
マックス・マリニのリンキングリングがどのようなものであったのかは分かっていません。しかし、アダチ龍光氏とCharles Wallerの方法から推察できそうです。Charles Wallerの方法では10本が使われます。トリプルとダブルと4本のシングルが使われ、1本のキーは上着の中に隠されています。キーリングなしの9本で開始され、特殊な方法でカウントしながらバラバラであることを見せています。キーなしで2本連結や3本連結の現象を見せ、客に渡して調べてもらいます。残りのシングルも全て客に渡して演者は何も持っていない状態をはっきりと示します。全てのリングを回収し、その時に上着の下方からキーリングを加えています。シングルとキーリングの2本だけでつないだり外したりを繰り返し、4本を使って各種の造形を行ないます。最後に10本全てを使って十字架を作り、一気にキーリングに全てのリングを集め、キーからバラバラに落下させて終わっています。これに比べてアダチ龍光氏の方法では数カ所で違いがあります。まず、全部で9本が使われているだけです。隠していたキーリングを加えるのは身体の正面です。造形は4本だけでなく3本や5本や6本でも行われ、8本で十字架を作り、1本を加えて灯篭を作っています。最後は落下させずに、キーを外して9本がバラバラであることを素早くカウントして示しています。
全てのリングを客に調べさせて演じるには、三つの方法が考えられます。ロック方式のキーリングの使用、スイッチする方法、そして、今回のような加える方法です。最近では、ロック方式が多いと考えられます。スイッチする方法は上記でも報告しましたチャン・リン・スーの演技が代表となります。そして、追加する方法ですが、誰が最初に使われたのかは分かりません。しかし、そのことを最初に記載された文献は、Sachs著「スライト・オブ・ハンド」のようです。1877年の初版から解説されていたのか、1885年の第2版で追加されたのかは調査できていません。その解説にはイラストも使用本数の記載もなく、全体の方法も分かりにくい状態ですが、キーリングを追加する三つの方法が簡単に紹介されていました。その次に登場する解説が1913年1月と2月のMAGIC誌です。Stanyonの方法となっていますが、誰かの方法が元になっていると考えられます。12本を使い、キーリングが背中に隠されています。全体的にはCharles Wallerの方法に似ていますが、12本の使用と背中から取ってくる問題を感じました。12本使用は途中で1本増えたことを感じさせにくいメリットがありますが、そのこと以外ではStanyon解説の演技にはデメリットが多いように思います。1897年に突然死したアレキサンダー・ハーマンの方法を元にされたのではないかと考えたくなりましたが、全くハーマンの方法が分かっていません。
1926年にはターベルシステムのレッスン47でユージン・ロウラントが10本を使って、少し長い手順にしています。これはターベルコース第4巻にも再録されています。驚いた演出が、最初に観客にキーリングを示して、切れたリングの場合にはリング同士の当たる音が違うことを実証していたことです。そのキーリングは舞台の袖へ処理してから演技を開始しています。興味深い解説が、隠していたキーリングを加える方法がアダチ龍光氏の方法に近いことです。しかし、キーリングを加えた後の演技が大きく違っており、別の要素が多数加わって複雑になっています。そして、造形の部分からはCharles Wallerに近い方法で演じられて終わっています。なお、ここで紹介しましたSachs、Stanyon、Waller、ロウラントの方法が1946年発行のFitzkee著”Rings in Your Fingers”にそれぞれの手順を箇条書きで簡単に紹介されています。ただし、間違った記載も多いので注意が必要です。Sachsの方法の記載ではかなり間違っているように思います。
1981年発行の「めくらます手品の世界」の中のアダチ龍光・立川談志の対談で、師匠から独立したすぐ後の東京での話が紹介されていました。その当時は中国人の奇術師がたくさんいて、金輪を演じる人も3人から5人いたそうです。そのために、金輪は先の演者が演じられたと言われても、自分は金輪が売り物でこれしかないし、自分の金輪は他と違うとか言って無理やり演じたそうです。ところが、大いに受けたそうです。当時の手品師と違って、青年なのに頭をオールバックにして燕尾服で白いチョッキを着て、違ったやり方の金輪を演じたので受けすぎたのが問題になります。年長の他の奇術師からあとがやりにくくて商売にならないとの苦情が増えて寄席には出演できなくなり、師匠の元へ戻ることになります。その東京にいた時に「パン時計」などの道具も仕入れたそうです。アダチ龍光氏の金輪が、大正時代中頃までに日本で演じられていた金輪ではなく、中国からの奇術師の新たな金輪でもないとすれば、マリニのリンキングリングしか考えられません。それに、アダチ龍光氏の新たな工夫が加わったものと考えられます。
近藤幸三著「奇術その魅力その世界」の中で、木村マリニ師匠のことが述べられています。ひとつの奇術を演じると師匠は、必ず、今のは面白かったか?、どこが面白かったか?、不自然なところはないか?、としつこいほどに聞かれたことを報告されています。どこをどう改良すれば、もっと良くなるか、より不思議でより楽しいものになるかが、師匠にとっての常に宿題であったと書かれています。この姿勢がそのまま龍光氏に伝わり、マリニの金輪の解明と工夫につながったのではないかと思います。そして、演技を師匠に見てもらい、勝負できる演目であるとの言葉をもらったのがアダチ龍光氏の金輪であったわけです。また、アダチ龍光氏の話術にうまくマッチした演目であったのだと思います。
バーノンの記憶を元にしてまとめられた”Malini and His Magic”には、初めてマリニを見た時のことが報告されています。まだ、小さかった頃に父親に連れられてカナダの会員制クラブでマリニの演技を見ています。初めて見た偉大なマジシャンで、小さい道具しか使っていないのに最大級の感動と忘れられない印象を残したと書かれています。つまり、その時にはリンキングリングを演じられていなかったと考えられます。その後、マリニと会うのはかなり後のニューヨークとのことです。その後、何度も会う機会があり、話を聞いたりマジックを見せてもらい、その後のバーノンのマジック人生に大きな影響を与えました。これは1920年代のことであると思います。その頃のマリニは、リンキングリングを演じなくなっていたのではないかと考えられます。バーノンのマリニの本には全くリングのことが登場しないからです。マリニのリングの演技を見たり話を聞いていたとすれば、そのことを書いていたと考えられます。マリニが演じる場所は上流の社交場です。強烈なインパクトを与える演目としては、リンキングリングは大きい道具の割に弱いと言えます。他のマジシャンも演じているからです。日本で演じた時のように、舞台を使うのは特殊であったとも考えられます。また、オーストラリアで生活をしていた一時期だけリングも演目に加えられていたのかもしれません。
バーノンの4本リングや6本リングを見ても、アダチ龍光氏やCharles Wallerの方法との関係性が見られません。影響を受けている形跡すら感じられません。バーノンの方法では全てのリングを客に渡して調べさせてはいません。しかし、全てを調べさせたような印象を与えたり、キーリングの存在を感じさせないようにしています。また、造形を基本的に無くしています。結局、バーノンはマリニのリングの演技を見ていない可能性が高く、全く影響も受けていないと考えられます。
今回のテーマは2012年のGenii誌のマリニ特集を読んだことから始まります。1916年にマリニがリンキングリングを演じたことが分かり、もう一度、近藤幸三氏の本を読み返し、アダチ龍光氏が2日間マリニの演技を見ることができたことも見つけます。そして、Fitzkeeのリングの本では、1916年のマリニの演技を見ていた人物が、1923年にアダチ龍光氏と同様なリンキングリングを発表していたことも分かります。これらが芋づる式に見つかったことが驚きでした。謎が残っているのが、マリニのリンキングリングと関係がありそうなアレキサンダー・ハーマンのリングの演技がどのようなものであったのか。マリニは1907年頃に来日されていたのか。そして、1925年頃にも来日されていたのか等です。それらを確定できる資料を見つけたくなります。
アダチ龍光氏の演技は、不思議さのあるマリニの考えと、楽しさのあるアダチ龍光氏の話術が加わり、木村マリニ師匠の客視点の厳しい指導から完成されたものであると思います。海外のマリニ研究家が、日本の木村マリニ氏の存在や、マリニのリンキングリングを少し形を変えて演じ続けられたアダチ龍光氏の存在を知ると、最大級の驚きの顔になることが想像できます。