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コラム



第49回 ダウンズ・パームはダウンズの考案か(2011.5.6up)

はじめに

2011年2月頃まで、私が気になっているコインの技法やフラリッシュについて調べていました。また、コイン・ボックスに孔があいていたのは、日本製だけなのかについても調べました。これらの調査内容は、近日発行予定の "Toy Box Vol. 11" に報告しています。今回はコイン・マジックの特集号ですので、コイン関連の気になっていた点を調べたわけです。その中で、あまりの意外な事実に驚かされたのがダウンズ・パームです。

ダウンズと言えば、19世紀末から20世紀初めにかけて活躍したコイン・マジシャンで、ステージで多数のコインを取り出す「マイザーズ・ドリーム」が有名です。この演技の中で使用した特別なパームが話題となり、このパームのことをダウンズ・パームと呼ぶようになったと思っていました。しかし、このパームは他の人物により解説されていたことが分かりました。また、このパームから次々にプロダクションする方法も、ダウンズ以外の人物により発表済みでした。その後もこのパームはいくつかの文献に登場しますが、いろいろな名称が付けられ、誰の名前もクレジットされていません。ダウンズは1938年に死亡していますが、それから数年後、ダウンズ・パームの名前が急に登場します。何故そのようなことになったのでしょうか。その謎を調査し、その結果を "Toy Box Vol. 11" で簡単に報告しました。今回のコラムでは、"Toy Box" での書き足らなかった点や、ダウンズ・パームに関わる人物について、もう少し詳しく取り上げて報告することにしました。

ダウンズ・パームについて

手のひらが客席に向けられて空であるのが見えているのに、次々とコインが取り出されたり、消失させることも出来ます。バック・パームやバック・ピンチでも可能なことですが、それは1枚か2枚の場合です。5~6枚のコインを使って行えるのがダウンズ・パームの優れた点です。手のひらを客席に向け、コインを水平な状態で、親指と人差し指の股の部分で挟んでパームします。客席からは、親指のカバーにより、コインの存在が見えません。

不可解に思った点

1. 1950年発行のヘンリー・ヘイ著「アマチュア・マジシャンズ・ハンドブック」を読みますと、ダウンズ・パームとは、手のひらにパームするエッジ・パームの別名となっていました。また、我々がダウンズ・パームと呼んでいるのは、クロッチ・パームの名前が付けられていました。そして、誰の名前もクレジットされていませんでした。クロッチとは、枝分かれした股の部分の意味があります。

2. ネルソン・ダウンズが1900年に発行した1冊目の本「モダン・コイン・マニピュレーション」には、当然のようにダウンズ・パームが解説されているものと思っていました。しかし、この本のどこにも解説されていませんでした。

3. 同じ1900年発行の Stanyon による "Serial Lessons in Conjuring No. 3" の "New Coin Tricks" の中で、ダウンズ・パームと同じパームが「サムパーム No. 2 」として解説されていました。

4. 1909年には、ダウンズの2冊目の本「アート・オブ・マジック」が発行されます。その中で、ダウンズ・パームの位置から数枚のコインをプロダクションする方法が解説されます。しかし、そのタイトルの付け方が奇妙です。Downs's Latest Method for "The Miser's Dream"「マイザーズ・ドリームのためのダウンズの最新の方法」となっていました。ダウンズの方法であれば、「ダウンズ・ニュー・コイン・プロダクション」のようなタイトルにするはずです。また、このパームやプロダクションの方法が彼の考案であれば、解説文の冒頭にそのことを主張しているはずです。他のマジックの解説では、多くがそのようになっていたからです。タイトルがこのような長い言い回しとなったのは、ダウンズ考案の方法でないためでしょうか。

5. 1907年のスフィンクス誌7月号に目を通して驚きました。上記のプロダクションの方法が、アマチュアらしき人物により既に発表されていたからです。これまでに見たことも書かれたこともなかったので投稿したと書いていました。

6. 1914年にはフランス語による Gaultier 著のスライハンド・マジックの名著が発行されます。その英訳版として発行されたのが、1945年のヒューガード英訳 "Magic Without Apparatus" (用具を必要としないマジック)です。この本に初めてダウンズ・パームの名前が登場します。しかし、それは、手のひらでのエッジ・パームのことでした。なお、我々がダウンズ・パームと呼んでいる状態からのプロダクションも解説されています。ところが、この本では、それは以前からヨーロッパで活躍しているマジシャンのマスクにより使用されていたと報告していました。そうであるのに、ダウンズが「アート・オブ・マジック」に解説していることに不信感を書いていました。しかし、いつ頃から使っていたのかの記載がありません。

7. 1950年以前で、ダウンズ・パームと同じパームが解説されている本を探しました。1935年のヒューガード著「コイン・マジック」では「フロント・サムパーム」の名前に、1941年の「ターベル・コース Vol. 1」では「インビジブル・サムパーム」に、1945年の "Magic Without Apparatus" では「フォーク・オブ・サムパーム」と名前が付けられていました。

結局、1950年以前の本を読んでいますと、頭が混乱してしまいます。我々が知っているダウンズ・パームの解説の元になる本は、1952年の Bobo著「モダン・コイン・マジック」のようです。この本の影響力が強いため、そのまま広まってしまいました。今回の調査により、ダウンズ・パームの名前の変更を主張するものではありません。ダウンズのコイン・マジックへの貢献と、このパーム自体もダウンズと関係あることから、この名前を付けられたものとして解釈するようにしたからです。現代では、世界的にダウンズ・パームとして認識されており、技法名の変更が困難なだけでなく、変更することの重要性もそれほど感じられません。もちろん、現代では、変更を主張する記載もありません。このことは、天海ピンチの場合とは大きく異なります。マニアの間では天海の方法と知られていたにもかかわらず、Bobo が1966年発行の「ニュー・モダン・コイン・マジック」に、ゴッシュマン・ピンチの名前で解説してしまったからです。天海の方法であることを知らなかった Bobo に問題があったといえます。今回の報告の目的は、今後、1950年以前の古いマジック書を読む機会がある場合に、コインの技法名で、私のように戸惑うことがないように願ってのことです。

ネルソン・ダウンズについて

「キング・オブ・コイン」と呼ばれたダウンズについて調べますと、意外な事実が分かりました。1912年の45才の早い段階でプロ・マジシャンを引退し、生まれ故郷の Iowa 州に戻り、その後はクロースアップを中心とした趣味として継続させていたことです。特にカード・マジックの興味が高かったようです。ダウンズの家を訪れた人物の驚きは、多数の手紙があったことでした。多くのマジシャンやマニアとの手紙の交流がありました。チャールズ・ジョーダンとも手紙で交流していたことは有名です。ジョーダンは1920年前後にだけ急浮上した謎の多いマジシャンです。また、1922年から32年までのエディー・マクガイヤーとの手紙の内容がまとめられ、一冊の本にしたものが1981年に発行されています。これは、1971年の「リンキング・リング」誌4月号と5月号に連載されていたものです。その手紙の内容の多くが、カード・マジックの作品についてでした。もちろん、クロースアップのコイン・マジックも考案し演じていました。マニア相手には、秘かにギミックを使って、不思議さを強力なものにして、マニアを煙に巻いていました。このギミックの使用は、親しいマジックの友人にも秘密にしていたことが後で分かります。彼のコイン・マジックは、スライハンドだけで演じていると思わせていたようです。

1867年生まれで、1883年に初めてアマチュアで出演し、1895年にプロとして「マイザーズ・ドリーム」を演じています。1899年にはロンドンの劇場で公演し、「キング・オブ・コイン」と呼ばれるようになります。プロになる以前は、鉄道会社の駅員として、切符販売や電信関係の業務を中心に行っていたようです。暇な時間帯は、コインの練習をしていたものと思われます。1900年発行の「モダン・コイン・マニピュレーション」と1909年発行の「アート・オブ・マジック」の著者でもあります。しかし、作品を提供していますが、本当の著者は、前者は W. J. Hilliar で、後者は J. N. Hilliard であることはよく知られています。1938年に死亡しています。

我々が知っているダウンズ・パームとして記載されるまでの経過変遷

「不可解に思った点 1」で報告しましたように、1950年のヘンリー・ヘイ著「アマチュア・マジシャンズ・ハンドブック」では、エッジ・パームの別名としてダウンズ・パームの名前が登場します。その2年後の1952年発行 Bobo 著「モダン・コイン・マジック」では、現代のダウンズ・パームの解説に変わっています。この食い違った記載となったのは何故でしょうか。数年前となる1945年発行のフランス語の英訳版 "Magic Without Apparatus" には、初めて、ダウンズ・パームの名前が登場しています。しかし、エッジ・パームのことをダウンズ・パームとして書いていました。それは、1900年発行のダウンズの「モダン・コイン・マニピュレーション」の本に、エッジ・パームが解説されていたので、ダウンズ考案と判断されたからのようです。

それに対して、独自の見解を加えて、ダウンズ・パームの名前で解説したのがアーサー・バックリーです。1948年発行の "Principles and Deceptions" に二つの方法が解説されています。一つは、現代ではダウンズ・パームと呼ばれている方法です。それを「ダウンズ・アッパー・パーム」と名付けています。二つ目は、エッジ・パームに近い状態で、その上を親指でカバーする方法です。これを「ダウンズ・ロワー・パーム」と名付けています。前者はダウンズの2冊目の本「アート・オブ・マジック」に解説されていたものです。これをダウンズのものと決定したことになります。また、後者のエッジ・パームに近い方法は、親指でカバーしていたものとして、バックリーの新たな解釈が加えられたことになります。バックリーの記載の奇妙な点は、「ダウンズ・ロワー・パーム」から次々と取り出す方法を、ダウンズの方法とせずに、アラン・ショウの方法としていた点です。1909年にアラン・ショウがこの方法で演じているのを見たからであると説明しています。結局、バックリーは独自の解釈とクレジットで書いており、信頼性に乏しいと思ってしまいました。

1952年の Bobo 著「モダン・コイン・マジック」では、さらに、Bobo 独自の判断が加わっています。エッジ・パームには誰の名前もクレジットせず、ダウンズとも関係のないような記載です。そして、バックリーが「ダウンズ・アッパー・パーム」と名付けていたものだけを、Boboはシンプルにして「ダウンズ・パーム」の名前に変えています。結局、バックリーと Bobo の独自な解釈が加わり、現代のものとなってしまったようです。

それでは、この後は、ダウンズ・パームに関わる数名の人物と本について説明を加えることにします。それぞれの人物を知ることにより、誰の記載が正しく、また、変更した著者には、それなりの理由があったのかを知る手がかりになればと思いました。

ヘンリー・ヘイについて 実名は、June Barrows Mussey

「アマチュア・マジシャンズ・ハンドブック」の著者で、私がこの本のコインの各技法を見た時に、正確な技法名を知らない人だと思ってしまいました。また、ダウンズ・パームを別の名前にして、エッジ・パームの別名をダウンズ・パームと呼んでいるのは、ダウンズのことを何も知らない人だと思い込んでいました。ところが、今回、調査して、全く逆であることが分かりました。ダウンズに詳しいだけでなく、もちろん、マジックにもかなり詳しいことが分かったからです。

彼の経歴を知って驚きました。1910年3月30日のニューヨーク生まれで、小さい頃よりダウンズの熱愛者です。1924年の13才で高校を卒業し、14才になった4月の二日間、ダウンズの家に泊まり込んでいます。その後、計画を立てて、一人で数ヶ月間、アメリカのいくつもの都市をマジック実演のツアーをしています。もちろん、実演場所は、両親の親戚や知人の協力を得てのことです。頭にターバンを巻き、特別な民族衣装とマジシャン名で実演しています。また、彼は小さい頃より、本の製作に関わる全てのことに興味を持っていました。アメリカ・ツアーの後、ヨーロッパ・ツアーも計画し、一人で数カ国を巡っています。これはマジック実演だけでなく、印刷物の勉強もかねてのことです。これも、もちろん、両親の多数の知人の協力を得て実現出来たことです。16才でハーバード大学へ入学し、19才でコロンビア大学へ移り、1年後には卒業しています。

1929年の19才の時、マルホランドと知り合い、1930年代のマルホランドのマジック書の製作や、マルホランドが編集長を務めるスフィンクス誌にも関わることになります。1931年の21才では、ドイツ語の Ottokar Fischer 著 "Illustrated Magic" も英訳しています。この本は、マジックの名著の一冊であり、英訳版は何度も再販を繰り返した本です。本のタイトルを見れば、子供向きのマジックの絵本を想像してしまいます。しかし、イラストや写真が要所にあるだけでそれほど多くなく、大学生レベルのマジック教科書といった存在です。1942年発行の Mussey 著「マジック」のタイトルの本までは、実名を記載していました。しかし、その後の有名な3冊の本は、ヘンリー・ヘイのペン・ネイムに変えています。1947年の "Learn Magic"、1949年の "Cyclopedia of Magic"、1950年の「アマチュア・マジシャンズ・ハンドブック」です。その後はドイツへ移り、ドイツ女性と結婚し、翻訳業を中心にして、ヨーロッパ各国の多数の本を英訳しています。残念ながら、それらはマジックの本ではありません。なお、1935年のスフィンクス誌9月号はダウンズ特集号で、ダウンズについての紹介記事を書いたのは彼 "Mussey" でした。以上のことからも、彼の記載は、かなり信頼出来るものであることが分かります。ヘンリー・ヘイについては、「リンキング・リング」誌の2000年4月号に、9ページをかけて詳しく紹介していました。

アーサー・バックリー "Arther Buckley" について

彼は1890年のオーストラリア生まれで、1908年に突然、プロ・マジシャンになっています。アラン・ショウのマジックを見てあこがれ、数ヶ月間、練習に没頭しただけでプロになったようです。最初のステージでは、ステージでの歩き方だけでなく、スピーチも考えておらず無言であったために、すぐにカーテンが降ろされることになります。その後は、もちろん、オーストラリアで活躍する一流マジシャンになります。

1918年にはアメリカへ渡り、コインとカードのマニピュレーション・マジックと、奥さんとのコンビによるテレパシー・ショーを演じています。1920年前後に、ファン状にカードをプロダクションする演技も始めています。私の調査では、この頃にこの方法を演じていたのは、彼とカーディーニとフロッグマンの3人が先駆者です。数年後にはオーストラリアへ戻っています。1934年に再びアメリカへ渡りますが、この時はマジシャンとしてではなく、電気通信の技師としてです。この分野でのいくつかの特許も取っています。1946年「カード・コントロール」、1947年 "Gems of Mental Magic"、1948年 "Principles and Deceptions" と続けて本を発行しています。彼はアラン・ショウのようなマジシャンを目差しましたが、そのために、ダウンズの「モダン・コイン・マニピュレーション」の本でコイン・マジックを猛練習しています。この本は、彼にとって特別な存在となったようです。私の調査では、彼はダウンズに会ったことも演技を見たこともないようです。それにも関わらず、本では独自の見解で解説をしていたことになります。

1900年発行「モダン・コイン・マニピュレーション」について

前半の技法解説に写真のようなイラストが使われており、その中で、ビックリするイラストが目に飛び込んできます。バック・パームしているイラストですが、異常さを感じます。中指と薬指の背部に、6枚のコインをずらして、両サイドを人差し指と小指で挟んでいるからです。また、別のイラストでは、40枚近いコインを、手のひらにエッジ・パームしているのも恐ろしさを感じます。意外であったのは、本の後半がギミックや用具を使ったマジックの解説になっていたことです。

ヘンリー・ヘイが14才の時にダウンズの家を訪れたのは、上記のパームや40枚のパーム・コインを手から手へパスするのが実際に可能であるのか、確かめたかったことも目的の一つのようです。ダウンズは実際に行ってみせますが、それが実践的なものであったかどうかは別問題です。ヘンリー・ヘイは著書の中で、「モダン・コイン・マニピュレーション」の本は、ダウンズの技法の宣伝用に制作されたもので、コイン・マジックを学ぼうとする人には、ふさわしい本とはいえないと書いています。解説も親切ではないからのようです。Boboの「モダン・コイン・マジック」の中のスタンリー・コリンズの章では、1899年にダウンズの演技を見た印象を報告しています。ダウンズの本に解説されている奇抜な技法の全ては、使っていなかったと書いていました。

それでも、ダウンズの本は、その後のコイン・マジックに大きな影響を与えています。ヘンリー・ヘイの数冊の本や、Boboの「モダン・コイン・マジック」でも、ダウンズの本から多数の部分を引用しています。エッジ・パームからのプロダクションをはじめ、エッジ・パームを応用した技法が多数登場します。また、バック・アンド・フロントパームや、各指でのバックピンチもイラストでは目につく技法です。

マスク "L'Homme Masque" について

119世紀末にマスクをつけて、ヨーロッパ各地で活躍したミステリアスなマジシャンがマスクです。コイン、カード、ボール等を使ったスライハンド・マジシャンで、目の周りだけ小さなマスクをつけています。彼については謎が多く、本によっては国籍をフランスとかスペイン、または、チリと書かれていました。実際は、1851年のペルー生まれであることが分かりました。1877年にはマジシャンとして活動しており、マスクの名前以前はDe Gago や Dr Gago の名前で、マスクなしで演じていました。1892年にプライベートな理由でマスクを付けて、マスク "L' Homme Masque" の名前に変えました。死亡年がもっとミステリーで、1906年に自殺したと書かれたり、1913年死亡とも書かれていたことがあったようです。しかし、1924年までの消息が分かっています。ただし、その頃に死亡したのか、その後か、正確な死亡年は分かっていません。1906年の死亡説は、1905年頃に引退して、ステージでは見かけなくなったからのようです。

ところで、マスクもダウンズ・パームからのプロダクションを演じていました。つまり、マスクは1905年以前に、その方法を使っていたことになります。ダウンズとの関係で興味深いことが分かりました。二人の間には、深い交流関係がありました。1901年のロンドンにおいて食事を共にした以降、何度も食事を共にする間柄となります。二人ともスライハンド・マジシャンとして目差す方向の意見が一致したためでしょうか。技術交流もして、ダウンズはマスクのマジックを発表する許可も得るほどの深い親友関係になります。しかし、これは長続きしませんでした。ダウンズが1903年のスフィンクス誌1月号や4月号で、マスクのプライベートな秘密を漏らしてしまったからです。つまり、マスクを引退の方向へ追い込んだのは、ダウンズが原因かもしれません。なお、このマスクに関しての詳しい情報は、Genii 誌の2000年7月号を参考にしました。

Bobo と「モダン・コイン・マジック」について

Bobo は1910年のテキサス州生まれで、学生時代にコイン・マジックを見せられ、大きな影響を受けています。本格的なマジックを習得したのは、1927年より始まったターベルの通信講座によります。これは、1941年からルイス・タネン社より発行される「ターベルコース」の元となるものです。19才より大工の仕事とアマチュアでマジックも演じています。数年後にはプロとなり、テキサス州周辺の学校を中心に、奥さんと共に巡っています。ピーク時には年間400校以上で上演し、もちろん、1日で数校を掛け持ちしていました。毎年、全く違った内容で上演し、生徒が在校中に同じマジックを見ることがない配慮もしています。そのことと内容の質の良さで、翌年の予約も必ず取って帰っていました。また、毎夜、帰宅出来る範囲内の学校しか出演しなかったようです。効率よく、地道な活動が50年以上続けられることになります。1993年の83才で引退し、1996年に死亡しています。

「モダン・コイン・マジック」は長い年数の間に、コツコツ集めた作品で、350ページ以上もあります。それぞれを習得しテストもして、項目別にファイルしていたようです。「マイザーズ・ドリーム」の章では、ダウンズの方法が解説されています。ダウンズの本には、40枚ほどをエッジ・パームする部分や、実践的でない部分がありますが、ダウンズに敬意を示してほとんど全てを解説しています。しかし、Boboの本の興味深い点は、このマジックに関しては各所に多数のコメントが挿入されており、厳しい指摘がなされている点です。

全体的に地道に作品を集めたことが伺えますが、大胆な部分もあります。それが、最初に解説されていますパームの技法名です。この本で初めてクラシック・パームの名前が登場しています。これまでの本では、オーディナリー・パームやレギュラー・パームと書かれていました。サム・パームに関しては、我々が知っている一つの方法だけにしています。これまでは、ダウンズ・パームを含めて、親指を使う三つのパームを、どれもサム・パームと呼ぶことがありました。そして、ダウンズ・パームがサム・パームから独立させて、大々的に紹介されています。このようなパームの名称とその説明内容が、その後、マジシャンの間でのスタンダードとなったようです。

私の最後の勝手な思考

Boboがダウンズ・パームを現在知られている内容に決定した理由がはっきり分かりません。しかし、案外、簡単な理由かもしれません。「モダン・コイン・マジック」の本の最初に、簡単なコイン・マジックの歴史の記載があります。その中で、1909年のダウンズの「アート・オブ・マジック」の本に、ダウンズ・サム・クロッチ・パームの記載を見つけたと書いています。これは、このコラムの最初の部分で紹介しました長いタイトルの方法のことです。このパームに関しては、この本の記載が最初と判断されてしまったようです。また、このタイトルのトップに「ダウンズの」と入っている点からダウンズ考案と思い、ダウンズ・パームにしたのではないかと考えました。

これに対して、エッジ・パームをダウンズ・パームと記載していたのは、フランスの Gaultier です。しかし、ダウンズの「モダン・コイン・マニピュレーション」の本のエッジ・パームの記載部分には、ダウンズのエッジ・パームとなっていません。また、彼の考案とも書いていません。ダウンズの本では、彼が考案したものには、「ダウンズ・ニュー・クリック・パス」、「ダウンズ・ニュー・ファン・パス」、「ダウンズ "Eureka" パス」のように、ダウンズの名前をつけたタイトルにしています。また、自分が考案したものには、何らかの方法で、そのことを主張しているはずです。そのような点で、エッジ・パームをダウンズ・パームと呼ぶよりも、親指の股に挟む方法をダウンズ・パームにすべきと考えたのではないかと思ってしまいました。

もう一つの気になる点は、Boboの本のダウンズ・パームの解説の最後に、アーサー・バックリーの本には応用作品があることを紹介していることです。つまり、バックリーの本を読まれているのに、エッジ・パームに近い「ダウンズ・ロワー・パーム」の方を排除したことになります。この理由については、親指でカバーするこのパームのことが、ダウンズの本に記載がなく、バックリーの本だけであったことが考えられます。また、バックリーの本では、このパームからのプロダクションをアラン・ショウのものとして解説していたことも大きな理由になりそうです。

おわりに

今回の調査で、ダウンズ・パームがダウンズのものでない可能性が高いことが分かりました。また、ダウンズ・パームからの数枚のコインのプロダクションも同様です。しかし、ダウンズのものでないことも完全に証明出来ません。マスクの考案かStanyon の考案かもしれませんが、そのことの決定も困難です。いずれにしましても、ダウンズがマジック界に大きな功績を残したことにより、誰もがダウンズ・パームの名前に異議を唱えなかったように思いました。今回の調査により、コインの歴史だけでなく、関連したマジシャンの意外な事実も分かり、大いに楽しめた調査となりました。


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